~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (十四)
この間、項羽は劉邦のいい気な演説をさえぎろうともせず、仁王立ちになったまま聴いていた。この檄しやすい男にとってめずらしいことであったが、ただ彼はこの間に別な作業を進行させていた。
彼の腰のまわりを、灌木の枝葉が包んでいる。その茂みに隠れて、数人の男が、一個の機械にとりついていた。
であった。
弩機は一種の銃とも見られなくもない。全体が鋼製で、矢を置き走らせるっや細長い台座(長さ六〇センチぐらい)には矢走りのみぞがきざまれている。先に強靭きょうじんな弓が装置されていて、そのつる(かぎ)をひっかけ、力いっぱいうしろに引き、懸刀けんとうと呼ばれる突起物にひっかける。そののち、矢を溝に置く。懸刀は同時に銃の引鉄ひきがねの役をなし、狙いを定めると同時に懸刀を引き、矢を飛ばすのである。この器機はこの大陸で発明され、普及した。しん以前から存在すが、『呉越ごえつ春秋しゅんじゅう(後漢の人趙曄ちょうかの撰)によると、南方ので発明されたものだという。楚とう多分に東南アジア民族の要素の濃いこの地方では、他の文化は中原ちゅうげんより遅れていたが、どういうわけか青銅冶金やきんが発達していた。
劉邦の演説が終わった時、灌木の中で弩機が鳴り、独特の太い矢が飛んだ。矢の先に重い石がついている。
劉邦の胸に命中した。
彼はこの日、格別厚のかわを重ねたよろいで上体をおおっていたため胸を砕くまでに至らなかったが、激しく転倒した。
(やった)
項羽は、確かに劉邦の最期を見た。
── 劉邦を殺す。
というただその一点に絞っていた彼の作戦はみごとに成功し、確認し終えるとゆっくりと背をかえし、こみちを登りはじめた。
が、ふりかえると劉邦がゆるゆると体を持ちあげる気配を示している。
(まだ動いているのか)
項羽は劉邦が即死しなかったことが不思議に思った。しかし半刻はんときつまいと思った。
「よくやった」
弩の射手たちをねぎらい、楼上の床几しょうぎに戻った。床几に腰をおろすと、さすがの項羽も体の中の気が抜けてゆくようで、しばらく虚脱してしまった。
劉邦は痛みで、胸郭を動かすことも出来ない。意識がともすれば遠くなった。
(起きあがらねば、全軍が崩れる)
と思ったが、どうにもならない。左右が、劉邦を担いだ。死体のようであった。
しかし、へらず口はたたいた。
えぶすめが、わしの足の指にておったわい」
中ったのは足の指だ、というのである。そのように全軍に伝えよ、とも言った。そのまま気が遠くなった。
2020/07/18
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