~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
弁士往来 (一)
しん末、彭城ほうじょう(今の徐州)の町のことである。
この時代、この町は黄河こうがの本流に面していた。黄河へ流れ込む幾筋かの細流が城内では両眼を石垣で堅牢に護岸されている。路に柳が植えられ、両岸に商舗がならび、水面には物産を乗せた小舟が、たえず往来していた。
この町にはさまざまな商人が集まる。金が落ちる町だけに、酒楼や妓楼ぎろうが多く、また諸国からのあぶれ者たちもここにわらじを脱ぐことが多かった。
ふところぐあいのわびしい者のために漿しょうかめ・・に入れて飲ませる軒店も多い。漿とは酒ではなくおもゆ・・・のことで、こんにちではspan>米湯ミータンと呼ばれている。
「これに満たしてくれ」
と、漿の店で大きなひさご・・・を出した者が居た。
無名時代の蒯通かいとうである。
後に韓信かんしんの謀臣になる男だが、この時代、諸郡諸賢県の豪傑を訪ねる一方、地理を見、人情を察するために旅をつづけていた。酒を買わずに漿を買うというのは、路銀に困っているためである。
服装は乞食にひとしい。大きな頭のはちがひらき、顔にぬめっぽくあぶらが浮いてしかも小ぶりな胴をもっているあたり、ある種のきのこ・・・を思わせた。
「これに満たしてくれ」
と、別の旅の者が横あいから大きな土の鉢を出した。よく煮えた漿が満たされると、その男は大切そうに両手にかかえ、こぼれぬように歩いて行く。しゅん・・・のすぎた土筆つくしのようにひょろりとしていて、長身であるだけにどこか滑稽の感じのする男であった。
両人は、知りあいではない。
が、偶然、小さな目的が同じだった。
漿を売る軒店からほんの近い所に二階家があり、横が細い路地になっている。両人ともその石畳に腰をおろし、漿を飲みはじめた。階上から、しつがころころと降り落ちて来る。
この階上に、歌妓かぎが住んでいる。旦那が来ているらしく、しきりに瑟を搔き鳴らしているのである。
この場合の瑟は二十五絃で打楽器のように明晰めいせきな音階を楽しませてくれるかと思うと、嫋々じょうじょうとして音がとぎれず、浪と共になぎさ・・・に遊ぶような気分をおこさせてくれる。
階上ではいかにも大商人といった中年男が、枕をひきつけてねそべっている。枕は、ぎょくを小さな薄板にして布のようにしたものをかぶせてある。手もとにさかなをのせた台があり、小女こおんなはしで商人の口に運び、ときに、
「酒」
と、商人がつぶやけば、小女がさかずきに満ちさせて口に運ぶ。
歌妓は、横たえられた瑟の前で片ひざを立て、背をのばし、手を絃に落としたかと思うと、鳥が舞い立つように手をあげた。音もさることながら、女の表情や手の動きを見ているだけでもきない。
ときに曲がむ。
すると露路から男二人の声が立ちのぼってきて、今の弾瑟だんしつのできばえ、曲についての感想をこもごも話すのである。
商人はその評に感心し、窓から路路を見おろして人体にんていを確かめると、小女に、
「この席へお招きせよ。鄭重ていちょうに申し上げるのだぞ」
小女が降りて行って伝えると、土筆つくしのほうが、小女を追った。小女が逃げ腰になってさらにいうと、土筆は、
商人あきんどふぜいがわれらを招くのに小女を使いによこすとはなにごとか」
車駕しゃがをよこせ、と言わんばかりであった。
返事を聞いて商人のほうが恥じ入り、男どもに酒肴しゅこうを持たせてみずから路路に降り、両人にさかずきを献じた。
2020/07/19
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