~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
弁士往来 (二)
年上の蒯通かいとうがまず飲み。次いで土筆が飲んだ。
「おそれながら両先生の席のはしを汚させていただくわけには参りますまいか」
商人が言うと、蒯通が土筆を見て、
「この人がよしと言えばよい」
と言った。土筆はあらためて蒯通を見てみ、うなずいた。
商人は自分の名を名乗り、蒯通に名をらしてもらった。次いで土筆が、
侯公こうこう」と、名乗った。
方士ほうしさまでございますか」
商人も驚き、蒯通も内心驚いた。彼は先刻出遭ったばかりのこのせて長身の男の名をまだ聞いていなかったのである。
始皇帝しこうていは神仙を好み、とくに侯公という方士を近づけているという話はこの彭城のあたりまで聞こえいぇいる。
「ちがう」
侯公は、にがい顔で言った。
「別人だ」
「では、同姓同名でございますか」
商人は、聞く。侯公はわずらわしそうに、
にんがちがって姓も名も同じだとなれば同姓同名ということがわかりきっている。わかりきったことに言葉を消費するということほど愚はない」
侯公の思想がよくあらわれている。
商人は蔡鮮さいせんという男で、貨殖にかけては何でもあつかう。
「商人は多弁なものでございます」
「お前が多弁なのだろう」
侯公は、あいまいを許さない。定陶ていとうには某という豪商がいて三日にひとことしか口をきかないが、千里のあいだの物の値を知り、上下する値幅で利を得ている、と侯公は言い、人はさまざまだ、商人もさまざまである、自分が多弁であるからと言って商人を代表することはよくない、と言った。
「先生は、多弁であられまするな」
商人は、驚いた。
「先刻は言葉をしめ、とおおせられましたのに」
「たれも悋しめとは言っていない。言葉というものは言って意味のある場合のみ使えと言っているだけだ」
「平素は無口であられますか」
「用がなければ百日でも黙っている」
「先生は、何をもって世に立とうとなされております」
べんだ」
つまり弁士だというのである。横で聞いていて、蒯通は内心驚いた。自分と同じではないか。
「なにを願っておられます」
「乱だ」
商人は、噴き出した。なるほど治世では縦横じゅうおうの弁というものの出る幕があるまい。
このように飲み食いしている間も、階上から瑟の音が降りおちてきている。商人は二人のためにそのように心遣いしたのである。
「お見受けするところ、お二方はお顔やお姿こそ違え、匂がじつに似ていらっしゃいます。古いお友達でございますか」
「いまこの路路でともに腰をおろしたばかりだ」
蒯通は、侯公への好意を込めて言った。
「するとあの瑟
「左様、この階上から漏れて来る瑟の音にかれ、おなじ聴くならば酒でもと思ったが銭はなし、せめて漿しょうをと思って買い求めていたところ、同じ思いでこのじん
「諸郡諸県のお話が聞きとうございます」
これが蔡鮮の本音であったかも知れない。いろんな地方の政情、人物、民情を聞くことはあきないにとって必要な事であった。
「では、あの歌妓を抱かせるか」
ただで聴くなどとんでもない料簡りょうけんだといわんばかりに蒯通は言った。とくに好色というほうではなかったが、とりあえず代価を求めたのである。
「おおせに従います。侯公先生のほうは何をお求めになります」
「一晩肩をんでくれ」
「わたくしが揉むのでございますか」
やや難色を示した。
「人は自分の得手えてをもって他人を利すべきものだ。蔡さんの手の指を見ていると、壁に張り付いているやもり・・・のような手のように先端さきが大きい。そういう指で肩を揉まれたら、吸い付くようで気持がよかろう」
「階上へおあがり願えますか」
「あがる」
侯公は言った。
2020/07/19
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