~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
弁士往来 (三)
蔡鮮さいせんは席をきよめ、酒肴をにぎやかにして大いにもてなした。
両人の話は得るところが多く、あとで蔡鮮はこの時の話からいくつものそうを得て大いにもうけた。
両人とも虚しい言葉は一語もなく、聴き方によってはすべて商いのたねになった。
「なるほど、弁士とはそのようなものでございますか」
蔡鮮は手をって喜んだ。弁士とは人の代理人になってかけあいに行く能弁家のことだと思っていたが、事理に通じ、世情にあかるく、その観察は商人の功利感覚をゆさぶるものがある。
(歌妓をあてがうなど、やすいものだ)
と思い、蒯通かいとうにはそれをもって酬いた。
侯公こうこうに対してはながながとせさせ、その体をんだ。揉みながらさらに話を引き出すべく何度も質問をしたが、しかし侯公はかぎをかけてしまったように口を閉ざしている。
(しむのか)
蔡鮮は思い、揉む手を怠ろうとすると、侯公はすばやく、
「代価だけ揉め」
と、しかった。侯公は気持がよかったらしく、ついに眠った。蔡鮮は救われたように手を離し、逃げ出そうとしたが、侯公はめざとい男だった。薄目をあけて蔡鮮をじっと見、
「お前は盗賊か}と、鋭く言った。代価を半ば支払って逃げるのは盗賊だという。ひょろ長くてどこか飄逸ひょういつな味のある男だと思っていたが、蒯通とはちがい、とぎすました匕首あいくちのような面のある男だった。
蔡鮮はついに夜更けまで揉まされ、「そこまで」と言って解放された時は、腕も手もこわばり、腰が泥板どろいたになったように動かず、しばらく立ちあがれなかった。
侯公は蔡鮮の顔を薄刃で切るような言い方で、
「蒯通もそうだが、わしも天下をへめぐり、ときに飢え、ときに足がえて雪の中で動けなくなったこともある。そのあげくの話を、お前の利益のために先刻してやったのだ。弁士というのは自分の言葉に命をけているのだ。お前はそれをやすあがなった」
不意に調子を変えて、
「くたびれたか」
はじめて笑った。せて薄手うすでな顔のせいか唇のはしがめくれ、ひどく酷薄な男のようにも見えた。
蒯通と侯公はそのあと共に旅をした。
遍歴しつつ毎日語り合ううちに、思考法から表現まで似てきた。十日ばかり前に侯公が語ったことを、蒯通が自分の意見として当の侯公に語ったことがあった。
「それは先日、私が言ったことではないか」
侯公がなじった。二人のうち、侯公のほうが独創性においてややまさっていたし、当人もそう思っていたから、愉快ではなかった。
(そうだったかな)
蒯通は思ったが、そうでもないような気もする。
「まちがいない。私は歩々ほほ記憶するたちだ、十一日前の昼すぎ、淮陽わいよう(河南省)をすぎて果留かりゅう という小さな村はずれの瓜畑うりばたけで農夫に会い、瓜を乞うた。蒯通よ、お前はその農夫に瓜が多くなる・・方法を教えたではないか」
「教えた」
「農夫は瓜を四つくれた」
「おぼえている」
「それを五里東へ行ったところのどろ・・柳の下で食ったが、その時にわしが言ったのだ。南の空に犬のような形の白い雲がうかんでいた」
「すべておぼえている。そのときわが脳中にもおなじ考えがあり、言葉としては口から出ずにいた。侯公よ、君の言葉のよってわが脳中の言葉がことごとく起きあがったのだ。私が語ったのと同じなのだ」
「別れねばならない時が来たようだ」
侯公は、深刻な顔で言った。
似てしまえば二人が一人になるというより。侯公の思想でいえば蒯通も侯公もともにこの世にいる理由がなくなる。ここで別れ、互いによき者を見つけてその者を天下の覇者はしゃたらしめるように互いのこの三寸さんずん不爛ふらんの舌を使おうではないか、と言った。
「もっともだ」
蒯通も侯公に友情を感じつつ、思った。
泗水しすいのほとりの小さな村にさしかかった時であった。二人は近くの店からを買い、一椀を飲みわけたあと、立ち上がった。
「おたがい、舌をつるぎだと思わねばなるまい。百万の兵をも殺傷するが、同時におのれの身を突き刺すことにもなる。自戒しよう」
と蒯通は言い、侯公も深くうなずいて、別れた。
その後、乱世がやって来た。
どちらも何度か主人を変えた。それぞれ流転るてんし、やがて侯公は劉邦りゅうほうの幕営に入り、蒯通は韓信かんしんの謀臣になった。
2020/07/20
Next