~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
弁士往来 (七)
武渉ぶしょうは、本題に入った。
彼は項羽の威を背負っているために、斉王である韓信と、すべて対等もしくはそれ以上の物言いで語った。
「漢王劉邦ほど悪い奴はいない」
と、まず倫理論を展開した。
武渉は、言う。かつてしんが亡んだ時、項王は諸将に地を分け、あるいは王にし、また侯伯にして天下を安んじさせたのに劉邦のみは兵をおこし他人の領を侵し、すすんで項王に挑んだ。このため天下は乱れ、民は戦いの災禍に苦しんでいる。しかし漢王劉邦はその欲望を満足させるまで兵をやめようとはしない。項王はときに劉邦の生命も運命もともに掌中に握ったことがあるが、相手を憐れみ、つい鳥を逃がすようにして逃された。漢王はそれを恩にも着ず、危機を脱すると、また戦を仕掛けて来た。こういう人間を信用出来るか、と武渉は言う。
「あなたも漢王についている限り、行末はいましめられてりょとして引き出されるだけだ」
「漢王には項王という恐ろしい敵がいる。だからこそ漢王はあなたの武を必要とし、あなたを殺さない。あなたは項王によって生かされているようなものだ」
とも言った。
「あなたの生きる道は、一つしかない。漢にそむいてと提携し、天下を三分してその一を得ることである」
とも言う。武渉は自分の言葉に酔い、卓をはげしく搏った。
「休息なさいますか」
蒯通かいとうは、韓信に言った。即答せず、休息して武渉が持ちかけたはなし・・・を慎重に検討する必要があるのではないか、という意味を含ませて言ったのだが、韓信はその必要を認めず、
「お受けできなくて残念なことである」
と、結論から言ってしまった。
「なぜだ」
武渉も、相手のあまりの単純さに驚いた。
「私は項王のおおせ・・・かしこみ、千里の道をこのようにしてやって来た。であるのに、一考もせずに即座にお断りになるとはどういうわけだ」
理由わけか」
韓信は感情がにわかに激してきたことが、そのおおぶりな横顔に散るように血色がひろがったことでもわかる。
「私は、項王がきらいなのだ」
「きらいとは、これは婦女子のような言葉を」
武渉も、狼狽ろうばいしている。
「なぜお嫌いなのです」
武渉の言葉が、丁寧になった。
「私を用いなかったからです」
韓信は、自分が楚の軍営にいたとき、身分は郎中ろうちゅうにすぎず、仕事といえば宿衛のときの番士にすぎなかった。と言った。
「進言、献策、一つとして用いられたことがない」
「項王がお忙しかったからでしょう」
「当時、忙しかったのは、項王だけではない」
敗者に近い漢王はそれ以上に多忙だった、と韓信は言う。
「では、漢王については、如何いかん
武渉は、問うた。
「好きです」
「理由は?」
「私を用いてくれたからです」
それだけだ、と韓信は言い、そででもって目の前の卓子をぬぐいはじめた。韓信が考え事をしているときなどの癖で、丹念に拭き、さらにふき、顔が映るほどに磨き上げてしまう。拭いている所作は、これだけの男でありながらどこかえんを含んだ婦人のような印象がある。
「士というものは、そういうものだ」
韓信は、静かに言った。
「漢王は私にじょう将軍の印綬いんじゅをさずけ、みずからの軍をいて幾万という兵を与えてくれた。それだけではない。ときに自分が着ている衣を脱いでb私に着せ、ときに自分が食べている食物を押して私に食べさせた。さらにはわが進言を聴き容れ、わが計画を用いてくれた。それがなければいませいの地に韓信という人間が存在していない。あなたは項王の使いとして千里の道を来た。以前の韓信に会うためでなく、現在の韓信に会うためだが、その韓信が出来上がったのは項王によるものかどうか」
さらに、
しょうとやら」
と、呼びかけた。
「あなたは以前の私を知っているという。以前の私なら、項王の使いとしてあなたはやって来たかどうか」
「つまりは・・・・」
武渉は言いかけたが言葉を失い、いたずらに汗を流しはじめた。むやみにくびの太い男だった。その頸が、栄養の足りない肩の中に沈んだようになり、顔が汗のなかでぶらさがっている。交渉は失敗に終わりそうであった。彼は項羽への言い訳を考えはじめた。
「項王を憎んでおられるわけだな」
「何を憎むことがあろう。ただ用いてもらえなかったというだけのころだ」
韓信は、笑顔に戻っている。
「よくわかった」
べつに理解できた顔つきでない。武渉はすがるような顔つきになり、
「いま伺ったことは、水に流してもらって」
と、言った。
「流せないのだ。忘れることが出来ても、流すことは出来ない。過去というものが積み重なって今日の韓信というものがある。流せということは韓信そのものを流せということだ」
「そこを」
武渉ぶしょうは手をこまぬき、たかくかかげて韓信かんしんに拝礼して、
「なんとかなりませぬか。旧知の武将がこのようにしてあなたをおがんでいる。そこのところを、なんとか考え直して・・・」
「私は死んでも漢王に対する節操は変えない」
韓信は言い切ってしまい、
「項王によろしくお伝え願いたい」
と結んだ。交渉は終わった。
202/07/24
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