~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
弁士往来 (八)
韓信は武渉との席では酒肴すら用意していなかった。
武渉を帰した後、さすがに疲れて一人部屋に籠った。韓信は独り居ることを好み、作戦を考える時も部屋を静かにして独居し、軽い酒をしゃくという酒器に満たして少しずつ飲みながら思案した。
蒯通かいとうはその癖をよく知っていた。女孺こむすめに命じて爵をもたせ、自分は酒器を持って部屋に入った。韓信は茫然としている。爵を左手に持って酒を注がせた。目はうつろであった。
女孺は去ったが、蒯通は残った。
きみよ」
と、蒯通は韓信に対し、あまり例のない尊称で呼んだ。
「なんだ」
韓信はそこに蒯通が居ることに驚き、
「蒯先生か、なにか事でも起こったか」
と言いつつも、その目は他のことでさ迷っている。実のところ、韓信は項羽から誘いの使いが来るほどの自分になっていることに新鮮に驚いていたが、その実感に重心をつけてうまく精神の底に沈めることが出来ずにいた。あの答でよかったかというたぐいの迷いではなかった。自分の新たな実像をつかんで懐にねじ込むだけの処理をしておかねば、このさき乱世での日常を送ることが出来ない。
蒯通は、韓信の心理がよくわかっていた。
(いい男だ)
と思う反面、いらだたしかった。これでは天下は取れまい。
「何の用だ」
言いつつも韓信の目はあらぬことで揺れ動いている。
「用があれば、言え」
「おしずかに」
蒯通は数歩引きさがって韓信を見た。さらに数歩さがり、遠霞とおがすみに霞む山でも眺めるような目つきで韓信を見つつ、
「私は若い頃観相術を学んだことがございます」
そう?」
韓信の関心がはじめて蒯通に吸い寄せられた。
「平素、ひそかにわしの相を観ていたのか」
「まことにふしぎな相をなさったおられます」
と言ったが、むろん蒯通の大うそである。
「いやなことを言う」
韓信は観相も好まないし、この種の話柄わへいも嫌いだった。
「申し上げてもよろしゅうございますか」
「聞きたくもないが」
しかし結局はを正して聴く姿勢をとってしまった。
「言え」
「お顔を拝しておりますと、失礼ながら、あなたさまはせいぜい封侯ほうこうどまりでございます」
「・・・・」
韓信はいよいよ愉快でなかった。
「ところが背がふしぎでございます。背のみを拝見しておりますと、たとえようもなく尊貴で、かような相を観たことがございませぬ」
「分裂しておるというのか」
「まさしく」
蒯通はうなずいて、
「いったんは天下を三分してその一を保有する大王になられるということでございます。そのあとのことはどのようになられますか、おそらく尊貴な背によって天下の主にでもなられるしか仕様のないものだと存じます」
「顔はどうなる」
せいぜい封侯どまりというではないか。
「天下を三分なさったときに、その相は消えましょう。おそらくは背の尊貴さがお体のすべてをおおうのではありますまいか」
「蒯先生」
韓信は、聡明な男だった。
「先刻の武将のいうとおりにせよというのか」
かんそむけという点では、武渉のいうところに近うございます。しかしと同盟せよ、ということではありませぬ。両者に対して不即不離、せいってたかだかと独立の勢いを示し、黄河流域における両者の死闘を観望せよということでございます」
「独立」
「さよう、独立」
斉王韓信自身が楚漢ばなれして独自の世界構想を持てということであろう。
「君なあってはその構想をお持ちでないがためにお顔が封侯どまりということでございます。お顔よりも背に従われませ」
「・・・それは」
韓信の表情が急に小さくなって、
「漢王に謀叛むほんせよということだな」
と、つぶやいた。
202/07/25
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