~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
弁士往来 (九)
(謀叛などと言う区々くくたる小事をいっているのではない)
蒯通はいらだったが、韓信の顔はすでにそのことにとらわれている。
「こういう里諺りげんがあるのをご存知か」
と韓信がこの時引用したのは
食人之食者死人之事(人ノ食ヲ食セシ者ハ人ノ事ニ死ス)
というもので、はるかな後世、日本の静岡県興津寺境内にこの文句を刻んだ碑が残っている。徳川幕府が亡んだ時、旧幕海軍が新政権に抵抗し、そのうちの咸臨丸かんりんまるが船体をいため、抗戦不能のまま静岡県清水港に入った。咸臨丸は白旗をかかげていたのだが、幕府軍がこれを許さず、船内に居た者はほとんど殺された。その二十余人の死体は海中に捨てられたが、その後腐爛し、船舶の出入りにもさしつかえたため、土地の俠客清水次郎長がひきあげて向島という土地に葬り、一本の松を目印とした。土地の人は「土左衛門松」とよんだが、のち「壮士墓」と刻まれた墓碑もたち、記念碑も出来た。記念碑の碑面に、」かつての旧幕艦隊の長であった榎本えのもと武揚たけあきが、旧幕の壮士の死が義によるものであることを一言で表すために韓信かんしんが引用した右の里諺りげんを刻みつけた。咸臨丸の死者たちの場合の「人」とは徳川将軍家のことである。食を分け与えられた者はその人のために死すべきものだ、という「人」とは韓信の場合劉邦りゅうほうであった。劉邦のためならば死なねばならない、と韓信は言う。この大陸の戦国時代がつくりあげた「きょう」という激越な倫理はこの短い言葉の中で凝縮ぎょうしゅくしている。
が、蒯通かいとう は感心しなかった。彼が韓信に望んでいるのは「よく人をあざむく」というていの英雄であった。この時代の英雄とは幾十万、幾百万の生民に食を与える者を指している。つまり食人之食者死人之事という言葉での「人」にあたる。
多数の生民を食べさせるという巨大な機能そのものを英雄と言うために、英雄は人をあざむくことも許され、義や俠という倫理的拘束からもときに開放されている。
(韓信は所詮壮士か)
蒯通は失望しつつも、屈しなかった。ここでくじければ韓信ともども滅びてしまう。
声をはげまし、
「義も俠も忠も信も、今もあなたにとっては身を亡ぼすもとだ」
と言った。
「なにを言われる」
韓信のほうが、言葉づかいを丁寧にした。
「乱をおさめるということは、天下に道を行うという事ではないか」
「道などいうことは乱を撥めてから言われよ」
蒯通はつづけて、
「あなたは、化物のようになってしまった」
と言った。わずか一年半で、ちょうを征服し、さらにせいを得て、その領域の広さは劉邦や項羽こううをしのぎ、その武、その才、その勇、その略、ことごとくしゅである劉邦をしのいでいる、という。
言いおわると蒯通は即席で警句をつくった。
勇略しゅふるハス者ハ身あやうク、功天下ヲおおフ者ハ賞セラレズ
勇略も功業も主より上という者は身があやうく、また決して賞せられることがないものだ、ときいております、と蒯通は言い、その実例をいくつかあげた。
次いで、たたみ込むように警句を述べた。
「猟師というものは野山に野獣を取り尽くしてしまうと、それまで走らせていた猟犬をて食ってしまうものです」
野獣すでニ尽キテ猟狗りょうく烹ラル。
えつ勾践こうせんにおける家老の范蠡はんりの運命をみよ、と蒯通は言う。
「君よ、あなたは漢王に対してまじめであり、まことであろうとする。しかし張耳ちょうじ陳余ちんよの例を思い出してください。あの二人は不遇時代に人もうらやむ仲で、互いに刎頸へんけいの契りを結んだものでしたが、それぞれがしょうになり、しょうになってから反目し、張耳ちょうじは漢王劉邦の武力を借りて陳余を攻め、これを殺し、頭も手足もばらばらに斬りきざんだのです。乱世における忠信がいかにはかないものであるか」
蒯通は、さらに言った。
「あなたは、とうほうもなく大きな存在になってしまったのです。そういう存在であるあなたが、漢に帰したところで漢人たちは怖れるだけであり、楚に服したところで楚人たちも信用いたしますまい。・・・そのあげくのはてが」
「先生」
韓信はさえぎった。蒯通 の言葉に圧倒され、顔色を失っていた。
「しばらくうことをめられよ、自分も考えてみたい」
ひとまず蒯通をさがらせると、臥床ふしどに頭から倒れ込んだ。

202/07/26
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