~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
弁士往来 (十)
(数日、韓信かんしんは自分を呼ばないだろう)
蒯通かいとうは宿舎へ帰り、臨淄りんしの市で買った少女に入浴の支度をさせた。
少女は裏庭に浴槽をすえ、そのまわりにすげで織ったむしろ・・・がまで織ったむしろ・・・を敷いた。湯は別の場所で沸かして浴槽にそそぐ。
まず髪を洗った。少女は米の汁を湯にしたものを蒯通の髪にそそぎ、両手で彼の大きな頭を揉みつぶすように揉んだ。
なんよ」
少女の呼び名である。
「商人は、うそをつかなかったな」
洗髪の世話がうまいというので、買った。そのぶんだけ他の女奴隷より高直こうじきだったのだが、頭をさしのべていると、まことにこころよい。
からだは、浴槽の中で布を使って洗うのである。
(侯公こうこうは、どうしているか)
ふと思った。劉邦のそばに仕えているはずだが、一向に名が聞こえないところをみると、ろくに仕事もないのではないか。
浴槽を出て、菅むしろの上で丹念に足の裏やかかと・・・をこすった。さらに足だけ浴槽につけてあかを落とし、ついでやわらかい蒲むしろを踏んだ。足の裏から快感が湧きあがって来る程度にこそばゆい。
「酒」
言いつけたが、少女はすでに用意していた。浴後の酒というのはこの時代の人々の大きな楽しみであった。
「喃よ、わしは数日後に気が狂うかも知れぬ」
少女は、肉の薄いまぶた・・・をあげて蒯通を見た。おしゃべりという名をたれがつけたのか、およそ声を発するということがない。
「狂うたとみたら、お前はその旨をわめきながら陣中をけぬけてどこへなりとも行け」
金もくれてやる、わしはもともと乞食をして里から里へ歩いていた、金などもはや要らぬわい、と言うと、喃は涙を溜め、かぶりをふった。
「いやか」
「・・・・・」
うなずいている。
「言うとおりにせい。わしの言うとおりにさえしておれば、諸事うまくゆくのだ」
ふと韓信のことを思った。
数日たって、韓信から呼び出された。
韓信は先日とは違い、眉の下が青くみえるほどにすずやかな顔をしていた。
蒯生かいせいよ、私は漢王を裏切れない」
と、この書生じみたせい王がいった時、蒯通は天が落ちて来てそのあたりで微塵みじんになったような感じがした。
(万事、おわった)
あとは厄難を避けねばならない。
すでにこの舌先から韓信に謀叛をすすめる言葉を出した以上、いつか人に知れてわが胸を刺すやいばにならぬとも限らない。
蒯通は、いつわって狂った。
顔に自分の糞をぬりたくり陣中をのし歩き、知人に出会うと、馬糞を入れた壺をさし出し、
── にらはじかみ・・・・の塩漬けでござる。
と言って、がせようとした。
韓信も蒯通の発狂を知り、
── 彼はあの時すでに狂っていたのだろう。
と思い、その論説の内容そのものを忘れようとした。
数日して定陶は逐電ちくでんした、喃がそれを追ったが、韓信はあえて追わなかった。
202/07/27
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