~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
平国侯の逐電 (二)
であるために、侯公こうこうは陣中でほどよく礼遇されている。ただ弁士として驚天動地きょうてんどうちの巧妙をたてる機会がなかった。
激戦の日も、行軍中の大休止の時も、他の客を相手にむだ話をしている。
「わしという人間は、小さな用には役立たんのだ」
と、常に仲間に言っていた。客の中には、単にそこが出身地というだけで、犬のようにけだし軍の道案内をしたりする者もいる。小まめに気働きして小さな官職にありつこうというわけであった。
侯公はそういうこともせずに、毎日飯だけを食い、暇があればまわりの景色を飽きることなく眺め、ときに、
「劉邦さんも、やき・・がまわったな」
などと、大声で言ったりする。
「しっ、人に聞こえたらどうするのだ」
と、他聞たぶんをおそれる者があったりすると、
「お前、それでも客か、客なら客に徹しろ」
劉邦に召し抱えられているのではないぞ、と叱りつけた。侯公に言わせると、古来、客というものは何を論じ、誰を誹謗ひぼうしてもかまわないものだという。そういう自由があってこそ客の言説がえ、ひいては主人の利益になる、とも言い、劉邦のひげのちり・・を払うのが客の仕事なら女子供でも出来るではないか、とも言ったりした。
侯公は、客哲学というべきものを持っていた。
仲間の客たちが、小功のたね・・あさってちっぽけな官職にありつこうとしたりすると、
「死ね」
と、罵倒ばとうしたりした。
「それでも客か」
ふたこと目には、こうであった。侯公によると、客たる者は、構想、気概ともに天下をおおうべきもので、そういう客の精神の場から見れば劉邦などは古水ふるみずにわくぼうふらのようなものだ、という。
「ぼうふらは、ひどかろう」
仲間の一人がたしなめたことがある。
こう王も同じくぼうふらの一匹として上下している。そう思わぬ限り、客としての精神の高が保てず、それが保てぬ限り大構想は思い浮かばず、思い浮かばねば結局主人の飯を無駄に食っているといおうことになる」
つまり主人に損をさせる、という。
「もっともだ」
侯公をはやす者もあれば、一方、侯公の哲学の猛々しさにへきえきして、
「侯公、あなたは間違っている。我々が客になっているのは、他日功をたてて多少の官爵を得たいと思っているからで、客であることは過程にすぎない。あなたの話を聞いていると、客であることが目的のようではないか」
という者があると、侯公は、
「目的だ」
と、言う。客として劉邦を誤らしめず、劉邦に天下を取らせることによって蒼生そうせいを安んずる、それだけが目的だ。眼前の英爵にくらむようでは智恵もなにもうかばぬ、客というものは、もし劉邦が天下のぬしとして不適当であればこれをひきさげて他の者を立てる、そこまでの毒を持っている者を言うのだ、とまで極言した。
侯公は心からそう思っている。
さらには仲間たちに客としての気概を持たせるべく教育したつもりであったが、客たちは侯公が言った「劉邦を余人に代える」という言葉を忘れず、あいつは叛臣になるのではないか、とひそかにささやいた。むろん客は臣ではないから直ちに叛臣にはならないが、もし官職を得た場合そうなるだろうというのである。
2020/07/29
Next