~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
平国侯の逐電 (三)
陸賈りくかという客がいた。
の人である。
生国しょうごくからいえばこう王に従いそうなものだが、項羽が客を好まないために劉邦りゅうほうの陣営の客になっていた。
専門は、弁士であった。
大きくひいでた額とすずやかな目を持っている。歩いているだけで風を巻くような堂々たる体躯たいくの持主だが、声は優しく、挙措きょそ動作が礼儀にかない、人々は陸賈をながめているだけで言い知れぬ快感を持った。
「なぜ将軍になられないのですか」
と、問うた者がある。
「陛下の思召おぼしめしがないからです」
謙虚に答えたので、ある者が劉邦に推薦すいせんした。馬上の陸賈を遠くから仰ぐだけで士卒は心を安んずるのではないでしょうか、というのが推薦の辞であった。劉邦ももっともだと思った。客に対して無作法な劉邦もこの陸賈という白皙はくせきの偉丈夫に対してだけはつねに丁寧な辞儀を用いていた。
「あなたを将軍にしましょう」
劉邦が言うと、陸賈はその恩を謝し、しかし自分は将軍にきませぬ。理由は決断心に富まないこと、難戦の時兵が苦しんでいるのを見ると心が弱くなり、はやばやと自殺してしまうかも知れないということを挙げた。さらに、
「将軍たる者は、稀有けうな資質がります。まず、高貴な愚鈍さというものがそれでございます」
それとは逆に野卑なさかしさというべき資質の者は将軍に適かない、と陸賈は言った。さらに自分は野卑ではないつもりでございますが、愚鈍ではございません。ときに風に草がそよぎ、つかの間に日がかげったりしていてもいちいち感じやすく、それがために雄渾ゆうこんな作戦活動をするには遠うございます、と言い、
「やはり、しばらく陛下の客として過ごさせて頂きとうございます」
と、言って断った。
人々は陸賈の謙虚をたたえ、
「なんと無欲な男か」
と言った。
陸賈は、仲間の客たちから格別の敬意を込めて立てられていた。食事の時など陸賈がはしを取らぬ限り顔を伏せて空腹に堪えている者もあり、また陸賈が口を開くと、まわりの者が雑談をやめた。
戦国以来、客はすべて同格という慣習があったが、しかし陸賈は格別で、彼に師礼をとっている者もいた。
ただ一人侯公こうこうだけが、陸賈に冷淡であった。陸賈が将軍職を拝辞した時も、
「卑しい奴だ」
と、べつの評価をした。
仲間たちは陸賈にはたかだかとした気韻きいんがあると思っていただけに、
「なぜ、陸賈が卑しい」
と、侯公に突っかかった者がいた。
「陸賈が将軍拝辞した言葉を繰り返し唱えてみろ。すべてあの男のはらの中の下卑げひ一物いちもつから出ていることがわかる」
つまりは保身だ、と侯公は吐き捨てるように言った。将軍というのは敵に敗けた場合死を賜ることが多い、ときに兵卒に下げられたりする。そういう危険な職につけと劉邦に二度と言わせぬよう自分の欠点を挙げつらねたのだが、彼があげた自分の欠点を裏返してみると、自分は他日文功をてるべき男です、ということを言っているのだ、と侯公は言う。しかも客のままでいたい、とは言っていない。「しばらく客のままでいたい」と言っているわけで、これらの言葉を一枚ずつかわらの石をめくるようにめくってみれば、要するに、いずれ高位の文官に任命していただきとうございます、それをお待ちいたしております、と言っているのと同じではないか。
「陸賈とは、そういうやつだ」
侯公は言った。
2020/07/29
Next