~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
平国侯の逐電 (六)
劉邦りゅうほうにとって広武山こうぶざんの時期が、失墜しっついしてゆく運命の底の、さらに底の暗い隅をいまわった時と言っていい。
(とても項羽こううにはかなわない)
と、かねて思いつづけていたことが、この時ほどはなはだしかったことはない。
広武山のふたつのこぶかんそそれぞれが占拠している。楚漢ともその瘤に石垣を積み、膨大な量の材木を組み上げ、山容を変えるほどの工事を重ねて胸壁、城楼を築き、透間なく旗を押し立てて、山風を華やかに彩っていた。
両軍の兵力と財力をここに結集させきったといっていい。
しん末以来続いて来た乱が、さまざまに流動しつつ項羽と劉邦の対立にそぼられ、やがてそれもこの山上での決戦で雌雄が決せられるかのように思われた。
この二つの瘤が、後世、土地の杣人そまびとたちから、楚城、漢城と呼ばれることはすでに述べた。一つの瘤の間に、深いたにによって切れ込んでおり、この澗があるためにただの弓では矢もとどきにくい。
漢城のほうの利点は、秦の遺産である官倉を抱え込んでいるということであった。広武山の山中の土を広く深く掘って穀物をおさめたこの倉のむれは、毎日漢兵を飽食させていた。
楚城の不利は、その大兵站へいたん基地がはるか後方にあり、ありの列をなすようにして兵糧ひょうりょうを運びつづけねばならない事であった。その補給線を、かつて遊俠ゆうきょうの親分だった老彭越ほうえつのゲリラ軍にたえずおびやかされており、それを護衛する兵力を常にいておかねばならなかった。
「劉邦は飯櫃めしびつをかかえて山上に居坐っている」
項羽は相手の怯懦きょうだを笑ったが、しかし彼の楚城のほうはかすかながらえの色が出はじめており、この現状を打破するには干戈かんかっての決戦しかなかった。
が、劉邦は乗らなかった。
「劉邦の臆病者」
という罵詈雑言ばりぞうごんを、項羽は断崖に掛けた楚の胸壁から漢城に向かって浴びせかけていたが、しかし劉邦は挑発に乗って来ず、もはや臆病であることが劉邦の大戦略かと思われるほどの段階になっていた。
項羽の不利は、せい(山東省)の地で急成長して「斉王」を称した韓信かんしんの勢力が、楚軍のやわらかいわき腹にほこを突きつけた形になっていることであった。
── いっそ漢に背き、楚に味方せよ。
と、弁士武渉ぶしょうを派遣したが、説得に失敗した。
以上のように列挙すると、項羽をめぐる戦略的情勢はかんばしくないかにみえる。
が、戦術的には圧倒的に優位を示していた。項羽という、勇猛さと戦い上手にかけては古代以来この地上にあらわれたことのない男に率いられた楚軍は、兵はつよく、馬はあがり、士卒のはしばしにいたるまで項羽を神のようにあがめ、その勝利を疑いもしなかった。
これにひきかえ、劉邦の士卒には勝利への確信などなかった。
── 戦えば必ず負ける。
という劉邦に率いられ、つねに項羽におびえ、敵の陣頭に項羽が現れたと聞くと雪崩を打って逃げるのが漢軍の習性のようになっていた。
(漢兵は、その日ぐらしだ)
と、弁士侯公などは思っている。漢軍に身を寄せて一日一日のかてが得られればよく、このはてにたとえ漢が負けようともそれはどうでもよかった。
(楚軍は、旗の勢いからしてちがう)
侯公は澗むこうの楚城を見て、毎朝思うのである。風の中で小気味よくなびき、楚兵の動作も機敏で、その英雄的な主将のつよい磁気をどの兵もうけており、どの兵も堂々としていて、彼ら一人で漢兵の十人でもとりひしぎそうであった。
その上、楚軍の有利な点は、劉邦の実父の太公たいこうと妻の呂氏りょしを生け捕りにしていて、その生殺与奪の自在を握っていることであった。このことは敵の漢兵の士気をどれほどいでいたか測り知れない。
漢兵にすれば自分たちがたとえ働いたところで、主将の劉邦が実父を犠牲にしてまでこの戦いを勝利にもってゆくはずがなく、やがては項羽に和を乞うにきまっている、と思っていた。この大陸の倫理習慣では孝が何にもまして絶対価値をもっている。その父を犠牲にしてまで戦うというのは勇者とされておらず、かえって劉邦が人々の信望を喪うという事を士卒たちは知っていた。
2020/07/31
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