~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
平国侯の逐電 (七)
この情勢下で、劉邦は負傷した。
── 漢王が殺された。
とっさに漢兵たちは思い、このとき漢城の旗がいっせいにえた。
これより前、項羽がたにぎわの崖まで出て来て劉邦と応答し、この上はあなたと一騎討で勝負をつけ、天下万民のために戦乱のたね・・を除こう、と言った。これに対し劉邦は拒否し、そのかわりに項羽に毒づいた。劉邦は行儀の悪い男ではあったが、ふしぎなほど下卑げびたところがなかった。このとき澗ごしに長広舌ちょうこうぜつをふるって相手をののしった苛烈さは、この男の生涯で前例のないことであった。ともかくも、武において項羽に劣っている。項羽に毒づく以外に漢軍の士気の低落を防ぐ手はなかったのであろう。
が、劉邦は項羽がその背後にを隠していたことを知らなかった。弩がはじかれ、矢が大きく澗の上を飛んで劉邦の胸に命中した。劉邦は転倒した。
幸い、矢は堅甲けんこうを貫かなかったが、その胸にはげしい打撃を与えた。劉邦はあやうく気を失いそうになったが、懸命に手をのばして足の指をひねり、
── 足に打ちあておったわい。
と、味方に聞こえるように言った。やがて介抱されてひっこんだというこのくだりはすでに述べた。
侯公こうこうは、この現場近くにいた。劉邦が倒れた時、
(ああ、漢もしまいか)
と思い、山を降りて行く自分の後姿が見えた。侯公は想像力にめぐまれていた。というより彼の頭脳からわきあがるこの気体のようなものは彼自身をささえその想像世界でしばしば殺した。漢軍という巨大な屍体したいが大陸に横たわって、その屍からぞろぞろと虫が出て行くのが見えた。虫の一匹が、侯公自身であった。はじはじけるようにつぎつぎとひろがってゆく想像の光景のために劉邦の死を悲しんでいるゆとりなどなかった。
やがて劉邦が、張良ちょうりょうのすすめで陣中を巡視したとき、
(生きていたのか)
と、思った。劉邦の顔色が死人のようであった。
その後、劉邦は、山上の陣営でせていた。
── 胸の骨が折れたらしい。
と、ささやく者もいた。
侯公は、劉邦のとしを思った。すでに初老であり、もしうわさ どおりだとすればそのいたで・・・に堪えられるかどうか。
2020/07/31
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