~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
平国侯の逐電 (八)
劉邦はひそかに山から降りた。
この時期、ふもとの成杲せいこう城は漢軍のものになっていた。項羽は成杲城に戦略的価値を認めず、守備兵を撤収して他の方面に向けたのである。
劉邦はしばらく成杲城で傷をやしない、やがてえたが、どうにも広武山こうぶざん対決たいけつ場裡じょうりに戻る気がしなかった。
(もう、どうなってもいい)
とさえ思った。劉邦の受けた傷は、によるものよりもさらに深刻なものがあった。しきりに県の豊邑ほうゆうでの少年時代が思い出され、そのころの野や空の色、路傍でしゃがんでいる老人、飛んでいるとんぼ、小川にむ小魚のひれの動きまでが鮮やかによみがえってきて、現実いまこのように項羽と争っている方が淡い夢であるかのように思われて来た。
(わしには、無理だった)
天下を望むような器量ではないことは、自分が一番知っている。ただやたらと人がしたがって来てしあげられるままに今日に至ったのだが、天が人を取り違えたのだ、と思ったりした。
── たれか、自分に代わる者がいないか。
と、思った。以前もこのことを思い、張良に打ち明けて一笑に付されたのだが、今こそ張良にでも代わってもらいたかった。
張良は山上に居る。
劉邦は自分に代わって総指揮をとてくれているあのせた亡かんの旧貴族の出の男に、使いを出した。
「しばらく関中かんちゅうに帰る。あとをよろしく頼む」
と言い、変装して成杲城を出た。
この決戦の時期に、主将が関中に帰ってしまうなど、常識では考えられぬことであった。
しかも病み上がりの身で、ながい道中は決して体にためにはならない。しかし劉邦にすればこれほど気落ちしてしまっている身を、決戦場やその近くで横たえるということに堪えられなかった。
(関中で死のう)
と、思った。
関中を得て以来、このゆかたな台上の国を守って項羽と戦いをはじめた最初から漢軍の補給を終始安泰なものにし、百戦百敗ともいうべき劉邦をそのつどち上らせてくれた蕭何しょうかの顔も久しぶりで見たい。蕭何がむしょう・・・・になつかしかった。
(蕭何がいなければ、漢軍などはとっくの昔に消えていた)
それに、子にも会いたい。
太子たいしなどと呼ばれているあのひ弱で凡庸な子については、
── あいつは俺の子じゃない。
と、劉邦はこぼしてきた。むろん呂氏りょしとの間に生れた嫡子ちゃくしにはちがいないが、秋口の蚊のように頼りない感じの少年で、とても劉邦には自分の血を受けたとは思えない。他に、陣中に連れているうまれの女でせき姓の女に、如意にょいという男子ができている。いっそこれと取り代えたいと思うほどであった。
それはともかく、太子に会い、あと・・の心得などをさとしておきたかった。あと・・というのは何のあと・・であるか、劉邦は自分でもはっきりせぬままに、しきりのあとのこと・・・・・というのが雲のように頭の中を去来している。
函谷関かんこくかんをくぐってやがて関中の台上に出ると、田園はすでに秋の収穫を終えていた。ことしのみのりが豊かであった。
関中の人々は、劉邦をあたたかく迎えた。関中はむかししんの地であり、人々はすべて秦人だが、彼らは秦の世を忘れたように漢の世を喜び、劉邦を慕っていた。
すべて蕭何のおかげであった。
この大陸は古来徴兵制であった。戦死者に対してはぞんざいなものであったが、蕭何は前線で戦死した士卒の死体は丁寧に故郷に送らせ、官費で棺と死装束をととのえて葬儀をさせた。
一方では蕭何は兵役にとられない十五歳から五十六歳までの人民に軍役銭として百二十銭を課したが、そういうことについての不満がまったく見られないほどに彼の政治はうまく行っていた。

2020/08/01

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