~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
平国侯の逐電 (十一)
劉邦の使者として陸賈が楚城にやって来た時、項羽の態度は冷ややかだった。
天下の楚軍らしく城門を入った時から軍士たちの礼儀は折り目正しく、兵糧不足というのに兵気がさかんで、堵列とれつしているどの兵の目もひょうのような野気やきを宿して光っていた。
「わたくしも楚人でございます」
陸賈が、項羽に親しみを感じさせるためにわざわざ生国を言ったのに、項羽は返事をしなかった。
── 楚人が、なぜ劉邦のもとにいるのだ。
項羽の目が、そのように反問している。
陸賈は雄弁家であった。先聖は戦争を好まず、戦う場合はただひとつ民を苦しみから開放する場合のみであった。戦って民を苦しめるようなことは王者の道ではないということをまことに博引傍証はくいんぼうしょう、古典から言葉を引き、事実を援用し、決して流暢りゅうちょうではなかったが、その誠実な話し方は、並み居る楚の重臣たちの心をその論理と叙述と描写の世界にき入れた。この大陸の文化は話題として倫理的課題を好む伝統があり、人々は長い戦乱の中でその種のことに飢えていた。
── 陣中、このような話が聴けるとは思わなかった。
項伯こうはくなどは、かたわらの人をかえりみてささやいた。
「陸賈よ」
項羽だけが、別な表情でいた。
「それだけか」
「されば休戦をし、民を・・・・」
「そのことは先刻、聞いた。そこもとはわしに何を望むのか」
「休戦でございます」
「劉邦はすでに先聖の道を踏んでいるのか」
「民を安んずるために休戦をしようと提案する以上、漢王は先聖の道に立っているといえるでしょう」
「いったな」
「確かに申しました」
「その論法でいえば、劉邦の申し出を断ればわしは悪逆の王になる」
項羽の眉間みけんに怒りが溜まっている。
「それほど傲慢ごうまんな言い方があるか。そこもとは頭から劉邦を聖王としている」
「・・・いいえ、漢王は」
陸賈は、狼狽ろうばいした。彼の論法は劉邦が先聖の道を先唱して項羽をしたがわせようとした以上、論理としては項羽の言う通りである。
「帰れ」
項羽は、怒りを押さえて言った。
「帰って漢王に伝えよ。戦禍という民のわずらいを取り去るには一日で足りる。漢王が漢軍を率い、城門を開いて打って出て来ればいいだけのことだ。直ちにわしは漢王の首を成杲せいこう城の城門に掛けてやろう。天下の蒼生そうせいはその日から戸を開けて眠ることが出来る」
陸賈は事成らずして漢城に戻って来た。
劉邦の前でいきさつや項羽とのやりとりをつぶさに報告した後、
「わがことをいうのは烏滸おこがましゅうございますが、君命だけは辱しめなかったつもりでございます」
「そうだろう」
劉邦はうなずいた。陸賈のように挙借典雅で才学のゆたかな男を劉邦が客にしているだけでもみばえ・・・のいいことであった。
「項羽にわしのことを褒めてくれたのだな」
「陛下は、褒められるに値する御人ごじんでございます」
「ありがたいことだ」
劉邦は鼻で笑った。
(だから儒者はきらいだ)
劉邦には考えられない。わざわざ敵の王を褒めに項羽のもとに行って、肝心の外交は成功しなかったが君命だけは辱しめなかったというおどろくべき形式主義こそ儒教の本質だと劉邦は思っている。
2020/08/02
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