~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
平国侯の逐電 (十二)
(やはり、侯公こうこうか)
劉邦は侯公がどんな男か、ほぼ知っている。こんなやつを使うのは九死に一生を得たいという破れかぶれの時だけだと思っていたが、もはやその段階ではないか。漢城をあげて項羽を恐れ、滞陣が長引くほど士気はちてゆく。漢の全軍が広武山の上にあがってしまって降りるに降りられぬというこの馬鹿々々しさから、劉邦自身が抜け出したかった。
「侯公先生をおよびせよ」
侯公がやって来ると、劉邦は席を与え、対等の位置をつくって、項羽のもとへ使いしてもらえまいかと、頼んだ。
「休戦をもちかけるのでござるな」
侯公は、むずかしい顔を作った。
「項羽と陸賈の応答をうかがいたい」
侯公は師賓しひんとしてことさらにぞんざいな言葉をつかう。劉邦が事実をもって告げると、侯公は笑いだし、ついには卓子をたたいて笑った。
「なにがおかしい」
劉邦は、不愉快になっている。
「物を乞うのに銭も持たずに行く馬鹿がござろうか。その上、相手の店先で道を説き、物をただで呉れねば先聖の道に背くことだなどという買い手がもし居たら、陛下はどうなさる」
「笑う」
「陸賈がそれでござる」
侯公は言った。この痩せてあご・・のとがった男には薄あばた・・・があって、大真面目になると、虫食いの長瓜ながうりが物を言っているような顔になる。
しかし陸賈は、君命をはずかしめなかった、と言ったぞ」
「君とは、陛下のことでござるか」
「あたりまえのことだ」
「すると、君は銭無しで店の物を買って来いと仰せられたわけでござるな。君命とはつまり銭を持たずに・・・」
(なんといやな奴だ)
劉邦は思ったが、今はこの男を頼るしかなかった。
「侯先生、あなたが行けば必ず成功するか」
「この広武山から両軍が明日にも撤収しましょう。もしそうでなければ、この侯公の体をなますにしてくださってもよろしゅうござる。ただしそれには陛下のお覚悟を伺っておかねばならぬ。陛下はそれほど休戦を望まれるか」
「望む」
「もし陛下の面目をそこなわず、陛下の士卒を一人も傷つけず、さらには御父君と御后おんきさきを項王から取り戻すということならば、あとはどういう条件を提示してもよろしゅうござるか」
侯公が劉邦に述べたのは、天下を漢と楚で二分することであった。
「その境界を鴻溝こうこうとします」
鴻溝とは、このあたりの滎陽けいよう(河南省)の付近を流れている運河のことである。滎陽城の東方にあり、黄河の水をひいて東南流し、途中屈折しつつ淮河わいがにそそいでいる。
侯公の案は、この鴻溝から西は漢とし、その東を楚とするというもので、なた・・で叩き割ったように大ざっぱな境界の設定の仕方だが、今の場合、この極度の過熱状態を打開するには、かえって精密でない方がいい。
── どうすべきか。
劉邦が、このあと張良に相談すると、張良は内心それが最良の案と思ったが、しかし領土を決めるのは劉邦その人であり、幕僚といえども口出し出来ないことだと思い、
「地を割ることについては陛下がお決めあそばさねばならぬことでございます」
一家における父権が包丁を取って肉を家族にける権であるように、大地に成立する王権は土地を配下に分ける権なのである。今この大地に項王と漢王が並び立っている。この両者がそれぞれの領域を決めるのは両者のみに付せられた権で、余人が口出しすべきでない、と張良は言うのである。
「この案が、わしにとって損か得かと聞いているのだ」
「大きに、陛下のお得でございます」
その理由は、この案では、滎陽、成杲せいこう、広武山という、亡しん以来、穀物の一大集積地が漢のものになっている。他日の戦いに再び御役に立ちましょう、と張良は言う。
「項羽が固執すまいか」
「この穀倉については項王は在来執着が薄うございました。項王にも執着があったら、とっくに陛下に勝っていたに違いありませぬ」
2020/08/03
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