~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
平国侯の逐電 (十三)
侯公こうこうは出発した。
出発といっても、漢城の前面に出、断崖に急設された梯子はしごをおりてたにの底に出、急流の中の岩から岩へ架けられた板の上を渡り、楚城の側が架けおろした梯子をつたって登るのである。
漢王の死者という容儀を整えるため、陸賈りくかの時もそうであったが、着飾った供を二十人ほど従えており、副使を二人連れていた。
楚城に入って行く時思ったことは、楚兵がみな痩せ、どの兵も身動きがにぶく、精気を失っている事であった。陸賈の報告では「なお兵は英気に満ちている」という事であったが、わずか十日の間にこうも変化するものであろうか。
もっとも楚兵の側は、侯公を見て、
(変な奴が来た)
と、たれもが思った。さきの陸賈は漢王に使者らしくその風姿は典雅であったが、侯公は畑泥棒のように野卑で、図々しそうであった。
項羽とそのまわりの者も、
(こいつは、まったくちがった男だ)
と、思った。さきの陸賈の背後には劉邦が立っている感じがしたが、こんどの侯公はなにやら独自の男で、楚城に物でも売りに来た男のようにも思われた。
「陛下、楚城にてゆっくりと致しとうございます」
と、侯公はのっけに言ったのである。一つの意味は会談はなしをいそがずにやろう、ということであったが、いま一つの意味は、俺と言う人間をゆっくろ見てくれ、それから話し合おうではないか、ということであった。
項羽は、陸賈の時と違い、酒肴しゅこうを出させて、配下の者たちに接待させた。
侯公は大いに飲み、大いに食った。
「人間、長生きせねばなりませぬ」
と言って、なにやら秘伝めかしい道引どういんを披露した。
五体をのろのろと動かしつつ体中のあらゆる関節に動きを与えつづける運動で、同時に呼吸術を兼ね、大気を体内に導き入れては吐き、この間、心気を鎮め、欲を制するのである。
導引はこの時代、あわりあい行われていたらしい。『史記』に散見し、「すいささヘ、老ヲ養フ」と書かれている。また張良ちょうりょうは晩年導引にったらしいともいうが、いずれにしても世界最古の体操といっていい。
老子ろうしの哲学に裏打ちされているというこの体操は円運動で、右ももをあげたかと思うと顔は左を向き、同時に左腕がゆるやかなをえがき、右腕は背後に動いているものであった。その間、呼吸術が加わっているために、表情は大気の中に溶けて痴呆のようになっている。
「なんともはや」
項羽の配下の中には、笑いだす者もいた。
(憎めぬ奴だ)
たれもが思い、さらには戦場にきて養生法に熱中している男に、なにやら戦闘者離れのした精神を感じさせられたりした。
「漢王の言い分を聞こう」
ある日、項羽が侯公うぃ呼んで、本題に入ろうとした。
ところが、侯公は窓外に黄葉しはじめている樹々を指しつつ天地自然の理を説きはじめ、項羽を変に雄大な気分にひたらせてしまった。が、項羽も面白がってはおれず、
「漢王はどう言っておるのか」
と重ねて聞くと、
「漢王のことなど、小うるそうござる」
と言って、吹き渡っている風をつかまえるようにして、風の話をしたりする。
「侯先生は、老荘ろうそうの徒か」
たまりかねて聞くと、侯公は自分には思想上の主人はいない、風や陽や土や火はわがあるじであり、友であり、下僕しもべでござる、という。
侯公がねらうところは、項羽の印象の中の自分を透明にしてしまうことであった。項羽が漢王の使者としてのみこの侯公を見るならば、侯公が何を言ってもそれは漢王の利益のためにはかっていると思い、虚心に聴こうとしないであろう。できればこの侯公は天地と運命の代弁者で、漢王への小さな忠誠心などはないのだ、という印象を持ってもらいたかった。
「漢王など、どうでもいいのです」
とまで極言し、副使としてやって来ている者に目をみはらせた。
「この侯公は、いわば天と地と人の代理人です。漢王に対し、忠でも不忠でもないということがおわかりいただけるでしょうか」
「わかるような気がする」
項羽は、面白がって手をたたいたりした。
侯公がそのあげくに分割論をもちだし、それには鴻溝こうこうの一線がよろしい、と言った時、ごく自然に項羽も了承した。
いつ、どのようにして両軍が撤兵するかという具体的な事については、侯公は項羽の配下と自分の副使にまかせ、あとは閑々として項羽をつかまえては諸国の地理、奇談のたぐいを物語ったりした。
項羽はこの種の男をみるのが初めてであったから大いに愉快がり、
「いっそ、わしに仕えぬか」
と、言った。
「陛下に?」
侯公は驚いて見せ、
「私は漢王にも仕えておりませぬのに」
「だからわしに仕えよというのだ」
「いやはや」
侯公は大笑いして、風や陽や樹木に仕えている者が項王にお仕えしたところで何の御役にも立ちませぬ。漢王の客として兵糧の余りを食っているのが何よりものんき・・・でござる、という。
「いったい、何がたのしみで生きているのだ」
「項王を仕合せにして差し上げるのが愉しみでございます」
「言うわ」
項王は侯公の肩を叩いて笑った。
2020/08/03
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