~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王百敗 (一)
山上で、和睦が成った。
かん両軍から使者団が出て、たがいにたにわたり、調整のためにかけまわった。やがて、
── 明朝、陽が昇るとともに楚漢両軍がいっせいに広武山こうぶさん上から撤退する。
という取り決めも出来た。一ヶ年、両軍ともにかわで張り付けられたような帯陣が、ようやく明日で終わるのである。
「ただし油断はならない」
劉邦りゅうほうの謀臣張良ちょうりょうは、
篝火かがりびを常よりもさかんにせよ」
と、諸将に伝えた。万が一の要人ということで、張良も項羽こううが違約して攻めて来るとは思っていない。
夜に入って、漢城の峰は昼のように明るくなった。
劉邦は張良の用心深さをおかしがり、
「項羽が奇襲して来るというのか」
張良に聞いた。
「来ないでしょう」
と、張良。
「なぜだ」
劉邦はこういう問答が好きである。
「項王は強者です。少なくとも自分を蓋世がいせいの雄だと思っています。強者というのは、自分の名誉にかけても言葉をたがえないものです」
「わしはどうだ」
「陛下でございますか」
張良は、黙って微妙に笑った。
「どうだ」
劉邦も笑いながら、問いかさねた。
「おそれながら弱者におおわします」
「わかっている」
項羽に対して百戦百敗してきた男が強者であるはずがない。
「そうすると項羽に信があって、わしには信がないということになる」
「陛下は私ども配下の者に対して信をもってお臨みになり、約束なされたお言葉をたがえられたことはありませぬ。人々が陛下につき従っているわけ・・の一つはここにあります。しかし項王に対してはときに約束をお違えあそばすかもしれませぬ。陛下は弱者におわすからです」
「弱者は、油断ならぬものか」
「私が項羽ならば、陛下を大いに警戒します」
「今夜、この劉邦が楚城へ不意打ちをかけるというのか」
「いや、それはなしませぬ。理由は・・・・とても」
「勝ち目がない」
劉邦は、大きなたらい・・・に水を張ったような無心の表情のまま笑った。
楼閣の上から、たにむこうの楚城の火がよく見える。篝火は常のままであり、旌旗せいきは動かず、峰全体が項羽の自身そのもののようにどっしりとしていた。
「項羽は大したものだ」
劉邦は、張良をかえりみて言った。
「わしはあの男に勝てなかったが、べつにくややんではおらぬ。あの男と百戦して命一つがふしぎに保てただけがわしの幸運であり、開き直って言えば自慢のようなものだ。普通ならば、あの男のあぎとにかけられてずたずたに引き裂かれてしまっている」
「それは、陛下がご自分を強者だとお思いになったことがないからでございます」
劉邦ははじめから自分をいくさ下手の弱者であると決め込んで来たから、項羽に対してきおいたったことがない。戦いが不利になればげた。張良は、それが劉邦の命を今まで保たせたもとだという。
「ふしぎなことに、陛下の場合、ご自分を弱者だよ思い決めて尻餅しりもちをおつきになっているその御人柄がそのまま徳になっておわします」
(── 徳?)
わしに徳などあるだろうか、と劉邦は思った。百姓の出らしく坐っても様子がわるく、言葉づかいが乱暴で、ときに配下の将軍や客人を小僧呼ばわりしてどなりつけてしまう。どなるのももつともな理由があるわけでなく、餓鬼大将が遊び仲間の顔に泥をなするつけるようなあんばいに人を手荒に取り扱うのである。このため劉邦にいやけ・・・がさしてめてゆく者もあり、そういう者たちが、
── 漢王は能なく智なく勇なく、しかも人間が粗樸そぼくすぎておよそ雅馴がじゅんでない。まことに不徳のひとである。
と言っているのを劉邦は耳にしたことがある。
「陛下は、御自分を空虚だと思っておられます。際限もなく空虚だと思っておられるところに、智者も勇者も入ることが出来ます。そのあたりのつまらぬ智者よりも御自分は不智だと思っておられるし、そのあたりの力自慢程度の男よりも御自分は不勇だと思っておられるために、小智、小勇の者までが陛下の空虚に中で気楽に呼吸をすることが出来ます。それを徳というのです」
「徳とはそういうものか」
劉邦は、きだした。
「それならわしにもある」
「さらに陛下は、欲深よくふかの者に対して寛容であられます。乱世の雄は多くは欲深で、欲によって離合集散するのです。欲深どもは、陛下のもとで辛抱さえしておれば自分の欲をかなえてもらえると思って、漢軍の旗の下に集まっているのです。漢軍の将は、十のうち八九はそのような者たちです。この連中が集まるというのも、徳というものです」
「それも徳か」
「治世の徳ではありませぬ。三百年、五百年に一度世が乱れる時には、そのような非常の徳の者が出て来るものでございます」
「それがわしか」
劉邦は、ほめられているのかどうか。
「項羽は、どうだ」
「項王にはそのような德はありませぬ。このため范増はんぞうを失って今は謀臣がなく、また韓信かんしんほどの大器を一時は配下にしていながらその才を見抜けず、脱走させてしまっています」
「韓信のことは、べつだ」
劉邦は腹立たしげに、顔を上下にこすった。
「韓信は、わしの手にえなくなっている」
この広武山の対峙たいじで、もし韓信が援軍に来ていれば一挙に戦況は変わったかもしてない。
「しかし韓信は楚につこうとはしておりませぬ。それだけでも陛下はとなさるべきです」
「それもそうだ」
劉邦は、おだやかな顔に戻った。
張良に言わせれば、項羽は空虚ではない。天地に千万の電光をはしらせるほどの勇と才で充実している。
「すると、項羽の天下になるのか」
劉邦が顔をにわかに赤黒くして言ったが、張良はただ、
「天」
と言ったきりで答えなかった。劉邦の軍団がみな信じていたように天の意思は劉邦にあるというのか、あるいはすべて天の決めることだという意味なのか、よくわからない。
200/08/05
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