~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王百敗 (二)
この和睦の条件は、項羽を喜ばせいている。
この和睦で楚と漢は天下を二分したが、どう考えても楚の領域は広大であった。
境界線は、今日の地図、地名でいえば、この広武山こうぶざんの東方の鄭州市から斜めに東南へ線をひいて、中牟、通許、太康、柘城、亳県、渦陽 あたりまで延びている。いわゆる中原ちゅうげんの地をななめに切り裂いたもので、これに加えて中原以南の広大な楚の地はむろん項羽のものである。劉邦りゅうほうの漢の領域はこの広武山、滎陽けいようをふくめつつ、もともとの領地の関中かんちゅう台地を加える。それに劉邦の出身地の泗水しすい郡はむろん入るが、あとは間接統治の地になる。旧、旧せいの地がそれで、これは韓信の直轄領もしくは影響下にあるために劉邦がどれだけ自由に出来るか、今後の状勢にまたねばならない。
「大王の損でござる」
項羽の側近ではそう言う者もあった。なるほど項羽はしんを亡ぼし、旧主のかい王を追ってしいしたために、この大陸の覇王はおうといえば彼以外になく、その覇王はおうたる者が中原を折半するのは損といえば損である。
「なにをいうか」
項羽は赤い口をあけて一笑に附した。
「劉邦にくれたやったのは仮の領地だ。いまわしの兵も馬も食に餓えている。後方へさがり、秋のみのりを腹一杯に与えればふたたび壮気満ち、馬はあががる。この和睦はただ食を得るためのものだ」
「あとは?」
「劉邦と漢軍を一撃に砕く」

翌朝、陽がのぼると、霧が深くなった。
両軍は旗をおろし、乳色の霧の中を降りはじめた。楚軍は東麓を、漢は西麓の道をたどった。
項羽はその根拠地の彭城ほうじょう(いまの徐州)をめざし、劉邦もまた黄河こうがをさかのぼってはるか関中台地にもどるつもりであった。
漢軍が広武山こうぶざんをおりて成杲えいこうの町に入っていっせいに朝食をとったとき、張良ちょうりょうは食事もそこそこにして陳平の陣へ行き、
「陛下の幕営へ行こう」
とさそった。歩きつつ、
「私が陛下に何を献言しようとしているか、君ならわかるだろう」
と言うと、陳平はただ色白の友人を一瞥いちべつしただけで黙っている。
「わからないか」
張良は平素とちがい、息も気ぜわしく、目が血走っていた。
「どうだ」
「想像は出来るが、言えない」
陳平は小声で言った。この男は詭計きけいを好んでいる。ときに人非人にんぴにんかと思われるほどにきわどい謀略を思いつく男であったが、この想像ばかりは口に出すことをはばかるものがあったらしい。
「漢軍は、弱い」
張良は言った。
「どうにもならぬほどの弱さだ」
張良の声に兵が振り返った。陳平は、珍しく興奮している友人のそでをひかねばならなかった。
「弱い」
張良はかまわずに言う。漢軍の弱いのは、劉邦のせいであった。兵はその主将に神秘的な憧憬どうけい心を抱いてこそ強くなるのだが、劉邦にはそういう要素がなかった。
「このまま関中に帰還して兵を休養させたところで、とても項王の叱咤しったする楚軍に勝てない。それとも陳平どのは見込みがあると思うか」
「とても」
陳平は、かぶりをふった。
「それでは、今こそ千載一遇の機会だと思わないか」
子房しぼう(張良の字)さん」
陳平の声がふるえた。
「── あなたは」
「そうだ、やくを破って楚軍を追撃するのだ」
「おそろしいことを」
くびがふとく、牛の顔のように硬いひたいを持った陳平は、身ぶるいするように首を振った。
「無理だ、子房さん」
あとは、転げるように多弁になった。
「あなたが考えるより私が考えるような策略さくりゃくだ。しかしひとたび項王との間の信を破ればどうなるか」
おそらく泥沼のような戦いの様相になるだろう。
今の協約を守ってさえいれば劉邦は関中に座し、その中原への前線要塞を滎陽けいようまで張り出し、一方、泗水あたりに遊撃軍を撒き、外交上は韓信を手なずけつつ、楚とのあいだの再度決戦の機会ときを待てばよい。
「待つ? 待って何になる。待てば項王に勝てるというのか」
張良の顔を落葉がかすめた。来月はもはや冬である。
「待ったところで仕方がないが」
陳平の声は、力がない。
「しかし」
いま項王に対し信を破れば彼は手負いししのように荒れ狂い、漢軍としてはもはや悠長な準備期間などもてなくなるだろう、と陳平は言った。
「もっとも項王を一挙に攻め殺せれば別だが」
陳平は言う、むろんそのことが陳平にはおそろしいのである。敵の項羽が陣頭に立つだけで全軍逃げ腰になるような漢軍を率いて、項羽を一挙に殺せるかどうか。
「子房さん、あなたはこの追撃戦にいい見通しがあるのか」
「ない」
張良が立ち止まって、正面から陳平の目を見た。
(ないのに、やるのか・・・)
陳平は、おどろいた。
陳平は、張良の温雅で淡白な性格が好きだったし、物事を計画するにあたって歯がゆいほどに慎重であることもよく知っている。その男が、負ければすべて失うという一か八かの大博奕ばくちを打とうというのである。
「成算はないが、将来さきへゆけばいいよいよなくなる。項王が楚の地に帰って兵馬を休めた後、戦力を充実させる。おそろしいばかりの力になるだろう」
それに項王は若く、漢王はすでにおいの坂にさしかかっている、待つという時が味方するのは項王の方で、漢王の方ではない、と張良は言う。
「いままで漢王は物事を積みあげて来た。戦えば負けつつも外交に力を用い、天下の弱者、天下の不平家、天下の欲深者よくふかものれなく連繋れんけいし、それらによって広武山上の一ヶ年の対峙でもわかうように、ようやく項王と互角に戦えるまでになった。今が漢軍の力の絶頂だろう」
「今が絶頂か」
陳平は張良の分析が意外だったが、しかし同時にそのとおりだとも思った。広武山の対峙では食糧のあり余った漢軍に対し、諸地方の群小軍閥はみな魅力を感じ、徒党や子弟を相率あいひきいてやって来ては味方した。ひどい例でいえば、戦うよりも飯を食うだけの目的でやって来た者もいる。
それらが、やがて楚地で戦力を回復する項羽の方へはしるというのは火を見るよりも明らかであった。
「それに、たった今の楚軍は餓えている。山を下って行く兵の足取りの弱々しさを見れば、気ままで百勝してきた項王にとって戦力が谷底に落ちているときであることがわかる」
ちたるをもってけたるを討つのか」
陳平の声が、わずかにはずんだ。
「そうもゆくまいが」
張良は言い、ともかくもしょう(劉邦)の献言したい、事が事だけに私ひとりでは上もためらわれるにちがいない、陳平どのも同意見だということであらば上も安心して決心遊ばすだろう、と言った。
2020/08/06
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