~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王百敗 (三)
劉邦は食事中に人を接見するくせがある。唇をあぶらでぬらしながら、やって来た者に、
「いい所へ来た。お前も食え」
と、料理をさらに取ってやったるする。
この朝、劉邦は広武山上の一ヶ年の対峙から解放されて町へ降りて来たときだけに、おおいにはしゃぎ、席を立って二人のために肉を分け与えたりしたが、張良の話がすすむにつれて手が動かなくなった。
「約束をたがえよというのか」
やがて席にもどった劉邦は、表情を凍らせた。
「項羽との関係も、それでしまいになる」
という不思議な内容の言葉をつぶやいたのは、張良にはわかうような気がした。楚漢という二大勢力の角逐かくちくはとりもなおさず項羽と劉邦の死闘であったが、どこか両者に友情といえないまでも似たような倫理感情があった。かつて劉邦が先んじて関中かんちゅうに入りながらあとから来た項羽に覇者の席をゆずったりする、また鴻門こうもんかいでは、項羽が「劉邦を殺せ」という范増はんぞうの助言を黙殺することによって劉邦の一命をたすけたりした。
劉邦は項羽を怖れながらも、心のどこかでこの敵に何事かを感じつづけてきた。少なくともかつて自分を裏切って今は自分に従っている同郷の雍歯ようしには憎悪を感じているが、敵の項羽に対してはそういう感情は少しもなく、かえって鴻門の会の頃を想うにつれ、項羽のあの独特の人の好さと、奇妙なほどの人情深さにひしぎさを感じたりしている。
「わしは広武山上で項羽を弾劾だんがいした。もしいま約を違え、項羽の信を失えば、わしは二度とあの小僧に対して堂々たる態度を示せなくなる」
「すべては過去のものになったのでございます
と、張良が言った。今までの段階では義あり、さらには情もある劇的なことが多かった。戦いつつもその分だけ余裕があったからだが、今はそれらのすべてが過去になった。劉邦が項羽に抱きついてその心臓を刺しつらぬくか、項羽が一刀をもって劉邦の首をね落とすか、どちらかしかない。
「全軍を旋回して項羽を追撃しても勝つかどうかはわかりませぬ。しかし追撃なさらねばいずれ陛下のお首が項王の前に落ちるという事だけは確実でございます」
「確実か」
「陛下、陛下を救うのは御決心だけでございます」
「諸将を集めよ」
劉邦はやにわに皿を引き寄せ、肉を口へ運びはじめた。追跡と決戦というこの長時間の軍隊運動のなかであとの食事がいつれるかわからず、それを思いつつしきりに咀嚼そしゃくした。その横顔はふだんのこの男にもどっている。

2020/08/07

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