~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王百敗 (四)
項羽は輿こしに乗って、山径やまみちを降りた。
この男の体力なら踏みしめる足で石も砕くほどの勢いで山を降りることが出来るのだが、の士卒たちはたちは高々と輿の上に乗っている項羽を望み見ることを好んだために退屈ながらも輿を用いたのである。
野に降りると、急に士卒たちの様子がえて見えた。今まで比較すべき人間を見ないために気付かなかったが、野良のらで働いている農夫と比べても、顔は、黄ばみ、足取りは弱々しかった。
彭城ほうじょうに帰れば、腹が裂けるほど食わせるぞ」
と、下級の諸将は、兵士たちをそんなふうに励ました。途中の野にも兵糧が集積されているわけでなかったから、わずかに兵站へいたんが持っている食糧で食いつないでゆかねばならない。
項羽の最大の失敗は兵を餓えさせたことであった。彼らの多くは流民のあがりであり、食をもとめて故郷を流離するうちに項羽の兵になっただけで、食が尽きれば他へ移って行く習性をもっていた。
それが離散せずに今日まで耐えてきたのは、ひとすじに項羽に対する強い崇敬心があったからだといえる。
食への不満は項羽へ向かわずに、直接の諸将にむかった。
「なんのための将だ」
と、彼らは上司に聞えぬように罵った。将であり兵であるというのは、食を授受するという暗黙の契約で成り立っている。将たる者が食を与えるという職分を全うせずに兵の上に立っているというほど滑稽で無恥なことはない。広武山こうぶさんの滞陣のときも、この憎しみは、何人かの不人気な将に集中し、「何某を殺してやる」という声までささやかれるようになっていた。
── 野に降りれば食糧があるだろう。
と期待して山を降りたところ、すぐさま行軍がはじまった。食は彭城で、というが、彭城は四百キロかなたにあり、栄養が満ちている状態でも、強歩十日はかかるのである。
「なぜ野に食糧を集積しておかないのだ、何某の怠慢ではないか」
兵たちは将を名指しでののしりあった。
群ごとに農家を襲う者もあり、この点、亡しんの官兵と変わらなかった。この大陸では後世に至るまで官軍が人民に乱暴をし、蜂起ほうき軍の方が ── 大多くの例外があるが ── その点の節度が高いとされている。漢軍も楚軍も本来秦に対する蜂起軍であった。その楚軍も広武山滞陣の餓えと諸将への憎しみのために軍紀がにわかに弛んだ。このことがやがて脱走につながってゆく。
項羽は野へ降りてから馬に乗り換えた。馬首を東に向け、
「ともかくも、彭城まで急行するのだ。彭城で米にも飽き、肉にも飽け」
と、言った。その一言で、この事態を片付けていた。彼は楚軍の士卒の中に漂いはじめている腐臭に気づかない。
2020/08/07
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