この昌邑(山東省)生れの老賊はもともと項羽を好まず、それがために劉邦につき、以後、楚軍の後方を攪乱かくらんすることに偏執的なほどの情熱をもっている男で、元来読る治水んが独立心が強く、劉邦への忠誠心など、かけらほども無いといっていい。
そのくせ功は漢軍の諸将のそれとは比較にならなかった。つねに漢軍主力の戦域の外に出没し、楚軍の補給線をおびやかしては食糧を奪いつづけた。たまりかねた項羽がみずから大軍を率いて彭越を撃ったことがあるが、彭越とその軍は蠅はえのように北方へ逃れて沼沢しょうたくにかくれた。項羽軍が本営へもどるとふたたびその後方にあらわれるというかっこうで、結局、広武山上で楚軍が餓えるにいたったのも、半ばこの彭越のせいといっていい。
彭越には、不満があった。
広武山上での楚漢対峙の時、韓信が使者を送っていわば強請したために劉邦はやむなくこれを斉王にしたが、この時、彭越に対しては何の沙汰もしなかった。劉邦は彭越をも王にするなど、思いもしなかったのである。
が、彭越のほうが、根ねに持った。
── 韓信とおれとは、功がどちらが大きいか。
(劉邦のやつは)
と、彭越は思った。
(おのれも野盗を働いた事があるくせに、わしを盗賊のあがりとみて軽蔑している)
元来、彭越は敵に対しては剛胆な男だが、味方に対しては傷つきやすい心を持っていた。この性格が右の一件で大きく傷口をうくってしまい、その後、広武山上の劉邦のもとに連絡員もよこさなくなってしまっている。
一説には、韓信と謀議しているという噂もあった。韓信はこの点で消極的だったが、彭越のほうがしきりに持ちかけて、
── 互に一致して楚漢双方から独立の勢せいを保とう。
と説きつづけているという。
この段階になると、韓信も彭越も自分の価値の大きさに気づきはじめている。
── 楚漢は共倒れになるだろう。
と見た、たとえどちらかが生き残るとしても気息奄々えんえんとしてすぐには起たちあがれまい。そこを討てば天下は韓信と彭越のものになる。
── 楚漢ごちらが生き残るか。
となると、韓信も彭越も、楚だと見ている。劉邦の漢軍がかろうじて項羽と互角に対峙し得るのは漢の味方として斉に韓信があり、旧もとの魏ぎの地に彭越が跳ねまわっているためで、もしこの二本の突支棒つっかいぼうが外れれば漢軍など項羽の一撃でつぶれてしまうだろうと見ていた。
まことにそのとおりで、劉邦や張良自身がそう思っていた。劉邦・張良が、項羽と項羽と死闘を重ねつつもしきりに戦域で項羽を牽制する勢力を育ってきたのは、その基本戦略と言っていい。ただその基本構想によって成長した圏外勢力が、この期ごになって自分の意志を持ちはじめたことだけが、計算外であった。
もっとも韓信の場合、そこまで明快な意志があるとも言い切れない。彼は項羽が生き残った場合、すかさずこれを斃たおすべく戦うつもりであったが、万一、劉邦が生き残った場合、この恩義のある男と戦う自分を想像することが出来ない。
このため、韓信は事態を観望しているといっていい。強しいて言えば、劉邦が項羽にたおされて死ぬのを、韓信は多少の悲しみを込めて、斉の地で待っているともいえる。
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2020/08/08 |
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