~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王百敗 (七)
項羽こううは、劉邦りゅうほう追尾ついびに気づいた。
「なんというやつだ」
と、この時の項羽の怒りは、まわりにいた数千という新衛兵がみな地に身を投げてひれ伏したほどにすさまじかった。
しかも劉邦の追尾の仕方が、気味悪いほどに静かなのである。二十万近い大軍が、道路と言う道路をひしめきつつ近づいて来る。
項羽という戦いの名人は、自分の激昂にさらわれることなく、すぐに行動しなかった。戦うならば一歩でも自分の根拠地ほうじょう城に近づいてからやるほうがいい、補給の難ということでは、すでに広武山上で手痛い目に遭ったばかりなのである。
「しばらくすてておけ」
と言いつつ、後衛の兵力を増強し、予定のように東へ向かって進んだ。
両軍の主要道路は、現在の西淝河せいひが(黄河南方の一支流)に沿った道で、そのあたりは一望の田園である。
固陵こりょう(河南省太康たいこう県)という町がある。そこまで来た時、項羽は彭城から急送してきた最初の糧食をひらき、大いに炊煙をあげて士卒に十分腹ごしらえさせた。
項羽は馬でもって全軍をけまわっている。自分の猛気を士卒たちに吹き入れるつもりであり、げんに一巡するたびに士卒たちの目の光が違って来た。
「劉邦は、野に出た」
ようやくさまよい出て来たわ、これ幸い、一撃であの男の首を叩き落として乱世の禍根を断つのだ、と項羽は言った。
が、このあたりは道路の両側に耕地が多く、大軍を展開して人馬を走らせるには不向きであった。
翌日、不毛のなだらかな丘の起伏している格好の野を見つけた。ここに漢軍をれて一挙に叩こうと思い、項羽は一方では兵を部署し、一方では漢軍をそれとなく誘導した。
劉邦はその不毛の原をはるかに望んで、さすがにためらった。
子房しぼう、あの原へ軍を進めるべきか」
進めれば、血みどろの決戦になってしまう。期待した韓信かんしん彭越ほうえつの軍はやって来ないのである。
北方から彼らが南下して来れば楚軍を包囲するのにうってつけの状況であり、地形であったが、来ない以上、どうも仕方がないではないか。
「大変なことになった」
劉邦は、自らすすんで項羽に野戦を挑んだことがない。
「子房、わしには自信がない」
「それでは戦わずにお逃げになりますか」
皮肉ではない。
用意のいい張良ちょうりょうは、敗走の場合を考え、後方の固陵城を確保し、負ければ劉邦を逃げ込ませるべく食糧を搬入させている。
「無理をなさらなくてもいいのです」
老荘家ろうそうかの張良は、いつもそんな具合である。人には得手不得手があると思っており、戦闘指揮の下手な劉邦に、この場だけの付け焼刃の猛将を気取らせても仕方がないと思っていた。
「陛下には、まだ機会があります。項王にとってはこの決戦が最後の機会になるでしょう」
劉邦はおどろき、
「── 項羽が」
と、絶句した。項羽はそこまで状況として追いつめられているのか。劉邦はここ十日ばかりの緊張にすべてをとらわれてしまい、自他を客観的に見ることが出来なくなっている。
張良が謀者を放って調べさせたところでは、項羽軍の脱走が相次いでいるという。項羽は、兵に見限られつつある。
「しかも、項羽軍は孤軍です」
どこからも援兵が来るあてがない。一戦ごとに目減りしてゆき、目減りするごとに兵が動揺して脱走する。悪い方へ相乗作用をおこしてゆく。運が尽きるというのはそういうことをいうのだと張良は思っている。
2020/08/09
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