~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (二)
張良は一個の宗教を信じている。
彼が老子ろうしの学徒(道家どうか)であることは、筆者はしばしば述べた。張良の一面は書物としての『老子』に傾倒する思想人であったが、他の一面ではそれを宗教的に実践しようとする行者めかしいにおいを持っていた。
道家であることの説明はむずかしい。
この場合の道家は、後の五斗ごと米道べいどう(後漢末)からおこった道教とのつながりは濃厚でない。かといって張良などよりもはるか昔に実在したといわれる老子その人が直接手をくだして道家のぎょう的な面を考え出したわけでもない。
張良たちの徒は老子をもって思想上の祖としつつ、そこへこの大陸固有の俗信である神仙思想が加わり、さらにはその俗信と不離の関係を持つらしい独特の養生法をむすびつけたもので、これらを混淆こんとうさせてこの当時「黄老こうろうの術」と呼ばれていた。
黄老の術は、政治学としての性格も強い。たとえば劉邦の配下の曹参そうしん陳平ちんぺいも、のち漢帝国の宰相になるのだが、その時の行蔵こうぞうからみて黄老派であるにおいがつよかった。
張良の場合、漢帝国の成立後もしばらく生きていたが、政治に関心を示さず、英爵をもちながら仙人のような暮らしをした。むしろ大真面目に仙人になりたかったのではないか。
断穀だんこく
などという異常なぎょうかれ、帝国成立後もそれをやって衰弱し、まわりが心配するほどであったということを見ても、政治より哲学を好んだ張良の人間的雰囲気が、ほぼ想像できる。
「張良は、ほんとうに病気なのか」
劉邦は、毎日のようにつぶやいた。
「呼んで来い」
と、卓が割れるほどにたたいたこともあったが、しぐ思い返して、そとしておいてやれ、と言い直した。
劉邦は、こうじはてている。
張良と陳平が、項羽との和睦の後、
「これをてておけば虎を野に放つようなものです、軍をひるがえしてあとを追うべきです」
とすすめたために劉邦は追撃し、一戦して敗れ、この思わぬ籠城になってしまっている。
── どうすればよい。
劉邦は泣きたい思いだった。
あの時、陳平と張良がこもごも言ったのは、楚軍は兵疲れ食尽きています、これは天が楚を亡ぼそうとしているのです、と言ったのに、城を囲んでいる楚軍は相変わらず強悍きょうかんで、劉邦にすれば天が亡ぼそうとしているのは自分の方としか思われない。
が、今となれば張良を呼んでも仕方がないかも知れない。
そのこよは劉邦もよくわかったいる。後に劉邦は張良の功をたたえ、
── 籌策はかりごと帷帳とばりの中でめぐらして勝利を千里の外に決する男だ。
と言ったが、しかし張良は韓信かんしんのような大軍の統率とうそつけているわけでもなく、灌嬰かんえいのように戦闘部隊の名指揮官でもない。第一そういうことが出来る体力を張良は持っておらず、そういうすべてを劉邦はよくわかっていた。今、城壁をともすれば登って来る楚兵を叩き落とすのは部署々々の猛将烈士がやるべきことであり、それを励まして戦意を持続させるのは劉邦自身の仕事だという事も、この男は知っている。
数日して、
張子房ちょうしぼう(張良)どのは、こくを断っておられるようです」
側近の者から聞いて、劉邦はあきれた。
「あの男は本気でそれをやっているのか」
物知らずな劉邦でも、にせ仙人どもが断穀のぎょうをするということは知っている。断穀とは穀物だけでなく食物一切を断つことをいう。目的は身を軽くし、体の中を清らかにするためだというが、多くは見せかけだけで、なかにはひそかにあぶらののった肉を食いながら穀物だけを断って、さとの者をたぶらかしている者もいる。
「本気でやっておられるようでござきます」
「ばかな、死ぬぞ」
劉邦は学こそないが ── むしろ学がないからこそ ── 儒家じゅかであれ道家であれ学問が持っている虚偽というものにはひっかからなかった。
2020/08/11
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