~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (三)
劉邦は張良を失うことをおそれた。ともかくも馬鹿な思い込みをやめさせるために、その夜、微服びふくして張良の宿舎に出かけた。
張良の部屋は、扉が閉まっている。扉の前に従者たちがすわっていて、劉邦を見ても入れようとしない。
「わしを知らぬのか」
劉邦はたまりかねて言ったが、張良の従者はいかにも張良好みの剛直な男で、かぶりを振った。
「漢方だぞ」
「王ならば、王らしき行装ぎょうそう をなされておりましょう」
何人なんびとが来ても室内に入れるな、と張良から命じられているという。
劉邦はやむなく扉の隙間から室内をのぞいた。
室内は、物のかげが大きくゆれている。灯心が、皿の中の羊の膏油あぶらを吸いあげては燃えているのである。この時代、この種の灯油は高価であった。ほのおがゆれるとともに、すわっている張良の影もゆれた。張良は影になってもしなやかで気品があった。
呼吸術をぎょうしているらしい。
「気だな」
劉邦は、つぶやいた。気をっている、という意味である。行気こうきという熟語もあった。
道家では、気ということをやかましくいう。
老子は万物の奥にある根源的なものの本質は無であるとした。無はいっさい限定されることなく、すべてに超越し、それによってすべてが生じ、すべてが動く。
無の一つのあらわれとして気がある。気は天地にみちみちている。すべての生命のもとをなし、気が衰えれば生命が萎え、うしなえば生命が消える。
人間の一個の体でいえば、内なる気を養うためには、天地に無限にみちみひている外気をたえず取り入れる。呼吸のことである。ここまでは道家の生理学といっていい。
その生理学をもとに、黄老こうろうの術ではとくに気を養うというぎょうをする。それを行気こうきと言い、あるいは胎息たいそくともいう。胎息はながながと深呼吸をして外気を体の中に取り入れるのである。
(張良めのしずかなことよ)
劉邦はあきれる思いであった。影が灯火でゆれているだけに凄味すごみがあり、張良自身、かげろうのように気に化してしまったようである。
胎息というのは鼻からほそぼそと気を入れてゆき、腹の中に気がみちてしまうと、これをしむようにいったん閉ざし、息を詰める。心の中で百二十をかぞえ、しかるのちにはじめて唇をわずかに開いてゆるゆると吐き出してゆく。
張良は、鼻さきに羽毛をぶらさげている。羽毛は動かない。
(ばかな奴だ)
劉邦は愛情を込めて思ったが、しかし室内に踏み込んで張良のぎょうをみだそうとは思わない。
「あす、わがもとに来い、と伝えよ」
と言い、足音を忍ばせて去った。
翌朝、劉邦は朝寝坊をした。起きたところで情勢が好転するわけではなく、項羽が遠くへ去ってくれるわけでもない。
劉邦が遅い朝食をとっていると、張良が足音もなく入って来た。
「なぜ仮病けびょうをつかっていた」
劉邦は、わざとどなってやった。
「陛下が、朝寝坊をなさっているのと同じでございます」
こういう状況になった以上、気永きながにやるしか仕方がないではないか、ということであろう。
「楚は相変わらず強勢だ」
「陛下は、わが室の灯火をご覧あそばしましたな」
「臭かった」
獣油はまことにくさい。
あぶらは、皿の中に入っております」
「わかっている」
「そのあぶらが尽きようとする時、灯心を通してあぶらの気がさかんにたちのぼり焔がひときわ高くがるものでございます。楚の天命あぶらもまさに尽きはてようとしています」
「それがなぜわかる」
劉邦は、はしをとめた。
張良の情報好きは今にはじまったものではない。
この亡かんの貴族のすえである男は、かつて韓が始皇帝しこうていに亡ぼされた後私財をことごとく売って金に換え、壮士をやとい、雄幸中の始皇帝を博浪沙はくろうさに撃とうとして失敗した。以後、逃亡して下邳かひ(江蘇省)に隠れ、游俠ゆうきょうとまじわった。そのことはすでに触れた。そのころ游俠のなかに項羽のおじ・・のひとりである項伯こうはくもいたが、彼が人を殺してお尋ね者になった時、張良がこれを救ってやった。
項伯は張良に恩義を感じ、この縁により、かつて劉邦が鴻門こうもんかいで項羽に謀殺されようとしたのを項羽の陣中に居た項伯が救い、かつての恩義にむくいた。そのこともすでに触れた。
2020/08/11
Next