~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (四)
項伯は、依然として項羽の陣中に居る。
── 項羽は劉邦とは違い、名門の出らしく礼儀正しい男だった。
という印象が、この時代からあった。なみの人間よりも十倍も多量な血液を持っているかのような項羽は、怒れば虎のようにはげしく、ときに敵や適地の人民を憎めば人のなしがたいような暴虐を働き、あるいはあるじと仰いだかい王を追放してこれを殺すといったような粗暴、悪虐の印象を印象を 与えがちであったが、他の一面、真向まっこうから矛盾するように味方には優しく、さらにその上、血縁の長者には礼をみって遇した。項羽が意外なほどに紳士であったという印象の伝承は、この面の人格が伝えられたものであろう。
あるいは、別の言い方も出来る。
項羽はあくまでも楚人であったということである。
中原ちゅうげんからは多分に未開、異質の印象を受けている楚の地の人々は、古代の部族国家の時代の慣習や道徳習慣、さらには古代的な閉鎖性をその気質や思考法のなかに継承しているのか、血族を尊ぶのである。
いうまでもなく、この点、中原の人たちも変わらない。が、中原はすでに広域社会になってからの歴史が古く、血族中心主義だけでは社会も政治もあるいは軍事もうまくゆかないことを知りすぎていた。劉邦などはむしろ血縁の者に生理的な嫌悪を感じているのではないかと思われるほどであり、心から他の才質や勇気を尊び、さらには他人の誠実を信じた。
項羽はその逆であったために、彼唯一の謀臣である范増はんぞうさえその忠誠心を猜疑さいぎされて去ったのである。以後、血縁の者ばかりが、項羽のいばく幕に集まっていた。その中でも項伯は、血縁の上長じょうちょうとして項羽から粗略にされなかった。
しかし、極秘の枢機すうきにまで参画していたとは思われない。
ひとつは、項伯にそれほどの才略がなかったということでもあったろう。
いまひとつは、鴻門の会の時、劉邦を謀殺しようとする范増の策を、項伯がかんじんの場面で妨害したことが、項羽やその側近の人々から疑われるもとになったともいえる。
疑うといっても、項羽の項伯に対する場合、深刻ではなかった。
── 項伯おじは、義の人だ。張良に対する義を重んじたから、やむを得ない。
として、項羽は項伯をじかにこのことで責めたことがない。
義とは、骨肉の情や、人間としての自然の情(たとえば命が惜しい)を越えて倫理的にそうあらねばならぬことをさす。
義は、戦国期に出来上がった倫理ではないかと思われる。のちに儒教に取り入れられて内容が複雑になり、また半面、義という文字から儀礼の義という文字が作られてゆくように儒教では多分に形骸化けいがいかされて礼儀作法とか、人と人とのつきあい・・・・の仕方といったものへ衰弱してしまう。
が、この時代は戦国期からほどもない時代だけに、この流行の精神は初期のたけだけしさや壮烈さを失っていなかった。
義という文字は、解字からいえば羊と我を複合させて作られたとされる。羊はヒツジから転じて美しいという意味をもつ。羊・我は、「我を美しくする」ということであろう。古義では「人が美しく舞う姿」をさしたとも言われているが、要するに人情という我を殺して倫理的な美をげる ── 命がけのかっこうよさ ── ということを言い、このしん末の乱世では、庶民のはしばしまでこの言葉を口にした。
項羽が義ということでそのおじの項伯を不問に付したのは多分に流行思想に影響されていたということも、言えなくはない。が、もし項伯が他人ならば項羽は決して許さなかったろうと想像する時、項羽の精神に流れている楚人らしい肉親縁者への甘さを思わざるを得ない。
2020/08/12
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