~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (五)
張良は仮病・・中、四方に人を出しては情報を集めていたが、項羽の幕下にいる項伯にも密使を派遣していた。
楚軍はその外容でみれば相変わらずさかんであるに似ているが、内実は空洞うろが出来たように鋭気を失っているということを、密使の報告で知った。
張良は密使をして項伯に言わせたことは、
「裏切れ」
ということではなかった。この時代、露骨に味方を不利にする裏切りというものは、ごく少数例あったとしても、結局は世の指弾しだんを受けてその者が終りをまつとうしないということは常識になっている。
張良が言わせたことは、
── 鴻門こうもんかいの時、漢王の命があなたの心配りによって救われた。ひいては私もあやうきからまぬがれることが出来た。。この恩義は子々孫々まで忘れ得ざるものである。いま楚漢は死闘をつづけていて、前途はどうなるか予断を許さない。あなたにとって楚が敗けるなどはあり得ない事かも知れないが、もしそうなった場合、ためらいもなしに私を訪ねて来てもらいたい。一命にかえてあなたの身の立つようにする。
という意味のことであった。
このひそかな申し出は。張良一個における、
「義」
というものであった。義はあくまでも個人的なもので、相手の項伯がどう受け取り、どう思おうとかまわない。また項伯における項羽との関係なども、一切かまうことはない。張良としては、命を助けられた恩義を、今度は命を助けることで返そうというのである。張良と項伯の間で結ばれている二人きりの秘密結社といっていい。
この「義」で結ばれたきずな・・・は、それぞれのあるじの劉邦や項羽と言えどもくちばしれることが出来ないほどに、個人間の峻厳しゅんげんな倫理なのである。
項伯は、感動したらしい。
「楚軍は項羽ひとりでっているようなものだ。実体は自壊している」
密使に教えるでもなく独り言のように言い、食糧の欠乏による極端な士気低下の実状を細々とつぶやいた。
この項伯の行為は、後世、儒教が倫理として整頓しぬいた「義」というやかましい立場からみると、面妖めんようというほかない。
が、この時代、後の世のように倫理が書物の中にあるわけでなく ── もしくは支配者が作って書物の形で民衆に広めるという後の世のそれでなく ── 庶民が世の中で生きてゆくための必要不可欠な息づいていたkたちでの「義」からいえば、項伯の項羽に対する主従の義などこしらえもののように貧弱なものであった。個人の間で冥々裡めいめいりに相互扶助の密契を結んだ義の方がはるかに大きい。
「たれから、きいた」
劉邦は、張良の主人ながら張良の冥々裡の義俠関係に触れるかも知れないこの種の質問を差し控えたい気持ちがあったが、いまは事態が切迫しているために、聞かざるを得なかった。
2020/08/13
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