~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (六)
「陛下も御存じの、項王の肉親に当たるお人です」
「項伯どのか」
劉邦が聞いたが、本来なら張良はその人の名を明かす必要はない。が、後日、項伯の一命を助けるべく劉邦に頼まねばならないことを思い、張良は婦人のようにやさしい顔をわずかにせ、そうだというしぐさをした。
「項伯どののいうことなら、まちがいはない」
「項伯どのが、項王を裏切ったわけではありませぬ」
「わかっている。かの人が、身のあやうさをかえりみずにそこもと・・・・の旧恩に酬いようとしたことは、鴻門の会の一事でもわかっている。あの時の項羽の勢いは天下をおおうほどのものであり、わしの勢力といえばうずら・・・の卵より弱かった。そういうわしをたすけたところで一利もなく、助ければ百害たちどころに一身に集まるというような時だった。であるのに項伯どのはすすんでそのことを行った。真の義人であるとわしは思っている」
「項伯どのを助けてくださいますか」
子房しぼう
劉邦は、くびに手刀てがたなをあて、
「それよりこの首が明日も胴についているかどうかだ。ついていればう」
事実、項伯はのち優遇され、劉邦が探し出してこれを射陽しゃよう侯に封じたばかりか、項姓では諸事都合が悪かろうといって、劉姓を与えた。
「子房よ」
劉邦は立ち上がって別室に入り、人を遠ざけて言った。このまま防戦していてあげくの果てはどうなるのか、ということである。
「・・・それは」
ひきわけでしょう、という意味のことを張良は言った。
今のところ漢軍は楚軍を怖れて打って出ようとはせず、栄螺さざえがふたを閉じたように四方の城門を固くざし、挑発にはいっさい乗らない。
漢軍には食糧があり、籠城が少々長びいても苦痛はなかった。一方、攻囲軍の方が餓えているという、古来の攻囲戦とはちがったふしぎな形になっている。楚軍はやがて囲みを解いて退かざるを得ないだろうというのが張良の見込みだった。
しかし項羽が自主的に撤退して根拠地の彭城ほうじょうにもどればふたたび楚軍は肥えふとって以前の強大さを取り戻すのである。
「むしろ楚軍が撤退するのが漢軍の利かと申せば、そうではございませぬ。楚軍が撤退すれば、陛下が天下を得られる機会は永久に去りましょう」
「そうか」
劉邦は張良の言葉に驚いたように首を振った。
「項羽がわしを締めあげている方がよいというのか」
劉邦のまゆが情けなさそうにさがってきた。この男ほど表情の正直な男はめずらしかった。
「しかしわしは今死中にある」
このままでは、いつか項羽の兵が城壁を乗りこえて城内に乱入し、劉邦の首をもぎ取ってしまうだろう。
「わしは、はいに居るべきだった」
劉邦はこれまで弱気になったときしばしばこの言葉を口にしてきたが、この時ほど切実な感情とともに、この言葉が噴きあがってきたことはない。
「項羽の敵になるような男ではないのだ」
2020/08/13
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