~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (八)
牽制けんせいと言えば、彭越ほうえつの今までの活動がまさにそれであった。劉邦の窮状をどれほど救って来たかわからず、もし彭越が項羽の後方を攪乱かくらんしつづけなければ劉邦など、たとえば滎陽けいよう城の段階で敗死していたに相違なかった。
彭越は劉邦からどれほど感謝されていいかわからない。
もともと昌邑しょうゆう(山東省)からおこったこの盗賊あがりの老将軍は、その兵力すべて自前で調達し、劉邦から一兵も借りていなかった。
当初、彭越は、一万余の兵力をかかえつつしん末の乱世の中で漂い、たれにも属していなかったが、やがて縁あって斉王の田栄でんえいに属し、将軍の印綬いんじゅを受けた。つまりは、盗賊でも流民の親方でもなく、いっぱしの世間体せけんていが出来たのである。斉の宿敵はであった。彭越は斉王の命令でしばしば項羽の派遣部隊と戦ったが、一度も負けたことがない。
やがて漢に属した。劉邦は彼をひょう麾下きかの将にした。
── なぜ、このわしが魏王の下につかねばならないのか。
と、おそらく彭越は不満だったに違いない。
お礼のために劉邦のもとにやって来た時も、その海綿が水を含んだような顔に、べつだんの感情の色を浮かべていなかった。
(このおいぼれ漁師め)
劉邦は、内心愉快でなかった。ついでながら彭越は若い頃昌邑の沼沢しょうたくいさりをして暮らしていたのである。
ほどなく劉邦は彭越を魏王の相国しょうこく(宰相)にしてやった。田舎の老賊あがりのあの男にすれば破格の名誉であるはずだと劉邦は思っていたが、しかし彭越は喜ばず、単に使者をよこしてお礼を述べただけであった。
もっとも魏といっても、さほどに実体がない。まして相国というのは称号にすぎず、宰相としての仕事があるわけではなかった。実際の仕事といえば、項羽の留守を狙ってはその版図はんとに出没して、たとえ一寸一尺でもその土地を斬り取るということであった。劉邦はこの時、
あなたには、りょうを与える。存分に斬り取られよ」
と、つけ加えた。
このことだけは、彭越にとって嬉しかったらしい。梁というのは、魏の異称であった。戦国末期に魏が秦に圧迫されて大梁たいりょう(現在の河南省開封かいほう)に遷都した。以後、人々は魏の国のことを「梁」とも呼ぶようになった。
この時代、梁という地域呼称は、まことに曖昧であった。梁をやる、と言っても、亡魏の旧都である大梁付近だけなのか、それとも魏の異称である以上、亡魏の版図ぜんぶをやるというのか。
彭越はむろん、亡魏全部と解釈した。官命は魏の相国ながら、その版図は魏王の版図すべてとみた。劉邦にとっても、そういうことはどうでもよかった。実際にはそのあたりは他人のもの ── 楚の項羽の版図 ── なのである。
「梁はおれのものだ」
ということが、なみはずれて物欲の強い彭越にとっては、目もくらむほどのかがやかしい目標になった。彼の思考も行動もすべてこの地の略取に集中された
これは結果として項羽の後方を攪乱することになった。
滎陽包囲時期も、広武山こうぶざん上での対峙時期も、梁の地は項羽の最前線と後方根拠地彭城ほうじょうとの中間にある。項羽の大版図のはらわたの部分にたちの悪い蛔虫かいちゅうが巣食ったようなものであった。彭越はゲリラでもって出没しては城を奪い、村をかじり取り、あるいは糧秣りょうまつの集積所をおそって兵糧を奪った。
項羽の欠陥は、外交がなかったことであろう。もし項羽がその気になれば ── つまり彭越に魏の地をくれてやりさえすれば ── 彼を簡単に抱き込むことが出来、これによって劉邦をごく自然に立ち枯れさせてしまうことが出来たのである。
項羽は、武の教徒であった。
かつて滎陽城に劉邦を囲んでいたとき、後方で彭越の軍がいなごのようにき、たちまち雎陽すいよう外黄がいこう(いずれも河南省)など十七城を攻めおとした。前線の項羽は配下に本営を預け、みずから大軍を率いて逆進し、彭越軍を撃ってこれを潰乱させ、十七城を回復した。彭越は北方の穀城こくじょう(山東省)へ逃げた。項羽が武を用いたことは徒労に終わった。彭越が生きている限り、蝗のようにふたたび涌くのである。
── 世に彭越ほどいやなやつがまたとあろうか。
と、項羽は思ったであろう。
ただ物欲だけで動いている。
敵として尊敬すべき勇も智もいさぎよさも持っていない。もしたれかが項羽に進言して、彭越を抱き込んで魏をくれてやりなさいと言っても、項羽は余人なら知らず、彭越など抱き込めるか、と怒ったに違いない。
劉邦にしても、同様であった。
彭越の活動によってはかり知れないほどの利益を受けていながら、劉邦には彭越を重んじる気はどうしても起こらなかった。
2020/08/14
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