~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (九)
張良ちょうりょうには、物事はかくあらねばならぬという儒教主義はすこしもない。
(韓信かんしん彭越ほうえつから倫理を期待してはならない)
と思っている。
かつての韓信はたしかに好漢で、儒者酈食其れきいきもこれを愛していたことを張良は知っている。しかし今の韓信が漢王をしのぐ版図と兵力を持った以上、彼を個人として見ることは出来ない。韓信という名は、今や彼を押し立てている無数の将卒の欲望の合印あいじるしのようなものであり、北方のせいのあたりにあってその欲望が黒けむりのようにがっているのである。
まして彭越にいたっては欲望以外のなにものもない。
黄老こうろうの術というのは、物事をそのように ── ありのままに── 見るのである。
「陛下は、なお儒教的でございます」
「なにをいうか」
劉邦ほど儒教ぎらいはいないというのは天下周知のこではないか。
「それでもなお、韓信や彭越に義を期待しておられます。陛下は広大な德を持たれるがゆえに天下の半ば以上が陛下を慕い、本来許されるはずのないかつての叛将もふだつきの悪党といわれた男も、陛下のもとで安んじて働いております」
劉邦が、後世、中国人の典型といわれたのも、このあたりにあるであろう。
「わしはそれだけが取柄だ」
「しかしなお、韓信や彭越に義を期待されるだけ、陛下の徳はお小さいと言わねばなりませぬ」
「べつに、両人に義は期待しておらぬ」
「かつて韓信に対し、斉王を称することを許されました」
「韓信が強要したからだ」
「お口惜くやしそうでございますな。配下である韓信が王などと何を言うかという口惜しさが陛下のお顔色に出ております。それは陛下が、韓信との関係を君臣という義で御覧になっているからでございます。韓信はもはや、山がそうであり海がそうであるように、一個の自然の勢力でございます」
子房しぼうよ」
劉邦は、張良の言う事がよくわかってる。斉王韓信に斉王らしい実質を持った大きな領域を与えよということであろう」
が、劉邦は立場上それは出来ない。
劉邦には、蕭何しょうかを筆頭に、旗挙げ以来、苦艱くかんを共にして来た忠良な家来たちがたくさんいる。それらに対してまだ何も酬いていないのに、韓信や彭越にそれをしていいものかどうかということである。
「韓信・彭越に対しては、今でも過賞だと思っている」
「両人は、そうは思っておりませぬ」
「なぜわかる」
「この張良の体の中に入っております玄気げんきでそれがわかるのでございます」
張良は、半ば冗談めかしく言った。
「陛下、天下がかたまる時、意外な要素もの添加くわわってにわかにかたまるものでございます。韓信・彭越は陛下の挙兵の時には居らず、また陛下とじかに艱難をともにしたわけではございませぬ。しかし天下が固まろうとしている今、この二つの要素ものがなければ項王に勝てず、この二つが離れれば天下どころか陛下は亡びるのでございます。この場合、二人の人格論をなさってはなりませぬ。今陛下に必要なのは天下が自然に成るための理を洞察なさるなさるだけのことでございます。それを洞察なさるためには、陛下は無私でなければ御目が見えませぬ」
「見えて来た」
劉邦は、突然叫んだ。
「天下を、韓信と彭越に呉れてやってもいいということだ」
「よくお見えになりました」
「わしは、はいに帰るのか」
劉邦の顔が大きくみくずれた。沛に隠退する気などはないが、それほどのはらづもりで韓信と彭越に大きなもの・・を与えようという決心がついたのである。
彭越に対しては将来実質上の魏王 ── 名将は梁王 ── にするという内意を含ませつつ、雎陽すいよう(河南省商邱しょうきゅう)より北、穀城(山東省東阿とうあ)までのすべての地を彼の所有とした。
韓信のためにく土地はさらに広大であった。ちん(河南省太康付近)から海にいたるまでのすべてである。この大陸におけるもっとも豊かで人口の多い地の多くが、この二人に与えられることになった。
(両人は喜んでこれを受け、兵力をこぞって項羽を撃つべく参戦するだろう)
張良は思った。
ただ張良は両人がこれを受けたことによって将来身を亡ぼすにいたるであろうことまでひそかに予測した。しゅしのぐ功をたて、主を凌ぐ封地ほうちを持てば、天下が落ちついた後、主である劉邦がなお寛容であるかとなると、疑問というほかない。
後日のことになるが、張良の予感は的中した。劉邦はなお寛大であったが、その妻の呂后りょこうはこの両人を目の仇にした。呂后だけでなく、群臣の中には佞険ねいけんな性格の者も多く、両人の異数の褒賞を喜ばず、謀叛むほんの噂などをたてて、結局は両人それぞれの運命をたどって殺され、その封土ほうどを取りあげられるにいたる。
張良は、なみはずれてこの種のことが見える男であった。
おなじく後日、劉邦が諸将の論功行賞を行った時、張良の功をとくに重く評価し、三万戸という大封を与えようとしたが、張良は固く辞して受けなかった。
── それがしがはじめて陛下にまみえましたのは、りゅう(江蘇省)の町の郊外でございました。あの町一つを頂戴できれば十分でございます。
と言い、ついにそのとおりになった。張良はそんぽ無欲のために漢帝国成立後の功臣や権臣の没落からまぬがれすべての人々から敬愛された。そういうりゅう侯張良の家でさえ二代は続かなかった。
張良の死後、その子、不疑ふぎが不敬罪に問われ、封地を没収された。
(韓信や彭越の後日のことまで心配してやる必要はない)
張良はこの時思った。両人の後日にどういう運命が待っているにせよ、この場の張良としては両人から兵力をひきだすしかなかった。相手を人間としてよりも水力や風力のような物理的現象として見据え切っておくのが、兵家の立場でもあった。
2020/08/15
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