~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (十)
項羽こううのまわりから、急に潮が退き始めたようであった。
「何と言うことだ」
固陵こりょう城城外の幕営で、自分の故郷の楚を守らせていた周殷しゅういんという将が漢の工作で寝返ったという急報を受けた時、小首をかしげたまま、ふしぎに怒りがかなかった。
項羽は、どこかにぶくなっていた。
疲れているのかも知れない。
「周殷には巣湖そうこのほとりの舒城じょじょう(安徽あんき省)を守らせていたはずだ」
巣湖は長江ちょうこうの北にあたり、日本の琵琶湖よりやや大きい。まわりの緒水を集めて長江にそそいでいるために水運上重要な湖で、湖港が大小三百余もあるほどであり、湖をとりまいて合肥ごうひ盧江ろこうそう、舒城など大きな城市がいくつもある。
そのうち舒城がもっとも重要で、この城さえおさえておけば湖のまわりの平野の穀物を十分集めることが出来た。
この方面に、漢将の劉賈りゅうかが早くから遊撃活動していたが、周殷はその劉賈から誘われたらしい。誘われただけでなく、あの付近では最大の都市であるりく(安徽省)を奪い取り、六のもとの主である九江きゅうこう黥布げいふをむかえたというのである。黥布が客将として劉邦のもとに身を寄せていたことはすでに述べた。勇猛で知られた黥布があの付近一帯の主として返り咲いたとすれば、楚のもっとも重要な地域が漢のゆうになってしまったということになる。
「いずれ、取り戻す」
項羽が言ったが、声に力がなかった。
この男だけでなく楚人一般の通癖であったが、勝に乗じている時は燃えあがる火のように強いが、ひとたび頽勢たいせいに入ると、負け込みに耐える力がなかった。
「固陵城の囲みを解こう」
彭城ほうじょうに戻るのだ、と項羽は言った。彭城に戻って体制を整えねばどうにもならなかった。
兵たちは、喜んだ。
彭城にもどれば食糧があることを知っていたからである。

野は寒くなっていた。
撤退の朝、楚軍はながらくだんを取ってきた焚火をそれぞれ踏み消したために、無数の白煙が野にあがり、やがてその煙も消えた頃、小部隊ごとに街道へ出た。楚兵に食糧と休息を与えてくれるはずの彭城をめざすのである。
「急ぐな」
項羽は、先頭にたえず使いをやって足が軽くなるのをいましめた。背後には敵の固陵城がある。いつ城門を開いて追いすがって来ぬともかぎらないのである。
は、劉邦は撃って出なかった。
追撃すれば野戦になってしまう。野戦になって項羽に勝てる者など、この世にいるはずがなかった。
項羽はむろん、劉邦が追って来ることを望んでいる。追って来れば劉邦のこうべ大鉄槌だいてっついをくだしてあの男がこまごまとやってきた細工さいくを一瞬で無にしてやることが出来るのである。要するに劉邦一人を殺すことであった。
(すべてはそれで済む)
項羽は、遠ざかる城父じょうほ(安徽省・現在の蒙城)に達した。
項羽はこの小さな城市をかねて 中間の食糧集積所として使ってきた。
その集積所の食糧も少なくなっている。
「ぜんぶ食ってしまえ」
なぜか、項羽はそんな命令を出してしまった。以後、食糧のない城になってしまう。食糧のない城は、使い道がなくなるのである。
「かまわん、食え」
項羽自身も、久しぶりで肉を皿に盛らせて食った。歯を鳴らし、あごをはげしく上下させて、城そのものを食っているいきおいで咀嚼そしゃくした。以後、項羽の領域においてこの城は無益の城にならざるを得ないのだが、明日のことはどうでもいいというほどに項羽は疲れはじめていたのだろうか。
城父城で一泊して、さらに行軍をかさね、やがり項羽の中間基地である?渓すいけい(安徽省)にいたったとき、城父城が漢軍に奪られたということを知った。
「劉邦が固陵城から出たのか」
項羽は思わず剣を掴んで立ち上がりかけたが、劉邦はなおも項羽を怖れてのことか、固陵城にいるという。それよりさらに驚くべき事実を知った。
城父城を奪ったのは西方の劉邦ではなく、南方からほこを突き上げるようにして北進してきた黥布げいふであるという。黥布軍には寝返り者の楚の将軍周殷しゅういんもまじっている。項羽の同郷の楚兵が多数いるはずであった。
(楚兵が敵に加わったのだ)
という思いは、郷党性の強い項羽にとって、手痛い衝撃であった。情勢というのはひとたび悪化すると何と急なことかと項羽は思った。
2020/08/16
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