~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (十二)
項羽は、すでに触れたように、周殷の寝返りは知っていた。
しかし、
(なんとかなるだろう)
と、自分を懸命になだめていた。楚の地は広大で、かつて周殷も楚地を治めると言いつつそに威令は巣湖そうこ付近にかぎられ、たとえば江南まで及んでいなかった。江南へ使者をやれば奮起して出て来る者も多いのではないか。
すでに項羽は、江南への使者を何人も派遣していた。しかし江南は遠く、さらには途中に漢兵が出没して、そこへ到着することも復命することも容易でないかも知れなかった。
急造の垓下がいか城が出来上がったころ、楚軍は少しずつその小要塞をめざして入りはじめた。主将の項羽はみずから殿軍しんがりとなり、野に残っている。
(やがて、戦機が来る)
項羽の戦いの流儀での戦機とは、そういうものであった。
もし漢軍が追尾して仕掛けてくればすばやく撃ち返して突き入り、劉邦を探し求め、驀進ばくしんしてこれを一刀で斬り伏せるのである。むろん項羽にはその自信があった。
ついに項羽の流儀でいう戦機せんきに、劉邦は乗らなかった。
項羽は、野のやや小高い処に一戸だけ建っていた小さな民家を本営にしていた。
彼は、戸外に床几しょうぎをすえている。
そのそばに、天下にこれ以上の名馬はないといわれるすいがつながれていた。騅は葦毛あしげ(白い毛なみに黒や濃褐色のさし毛が混じっている馬)という意味で、普通名詞ではあったが、項羽はこれを固有名詞としてこの馬に名づけていた。
騅は、毛があぶらびかりするほどに美しい馬であった。それをかたわらの樹につながせ、馬丁にやすみなく脚を摩擦させていた。
天は、寒かった。
広武山こうぶざん上での和睦の時は初秋であったのに、もはや冬になってしまっている。項羽は遠い敵陣を望みつつ、首すじの筋肉をふるわせて顔を振った。すべてがうまく行っていたのにあの和睦から白が黒に変わったように悪くなった。あの弱い劉邦がなぜあのように強勢になり、かつては一喝するだけで天下を震わせ、一度もけをとったことのない自分がなぜこのように一軍もろともに落魄らくはくしたのか、項羽にはまったくわからない。
(わからない)
なにか、方士ほうしの仙術にかかって夢の中に佇んでいるような気もする。
ひとつだけ項羽がわかりはじめていることがあった。自分の故郷の楚のことであった。この長い戦いの中で、一度も故郷の父老ふろうをなぐさめに帰るということがなく、また、重い地位の者を代理者として帰らせ、彼らと語らいをさせるということもなかった。この点、劉邦はその領地である関中かんちゅうにしばしば行き、広武山上で負傷した時も、れあがっている体を車に乗せて関中へ帰り、父老と酒宴を持った。だからこそ関中の父老はその子弟を際限もなく劉邦の前線に送って来たのだが、項羽はむろんそういう劉邦のやり方は知らない。彼があの負傷の後、関中へ行ったということも項羽の知るところではない。
ただ天下のどこからも援軍が来そうにないこの状態になって思い出されて来るのは楚のことであり、楚の父老のことであり、故郷の江南の風景であった。
楚人は魚を食う。
それだけでも、�ぶたや羊を食う中原ちゅうげん ── 高燥で肥沃な黄土高原 ── の人々から異俗視もしくは蛮族ばんぞく視されていやしめられてきた。
気色も、この垓下のあたりとはまったくちがう。
たとえば楚人は米を食う。
とくに江南の地は、イネがつくった気色であった。屋根を葺くのも草でなくわら・・ふきで、縄で帯をつくり、わらをってわらじ・・・をつくるのである。黄河流域の人々から見れば、まことに異俗というほかなかろう
江南人がイネをつくるのは、後世のように巧緻こうちではない。
あぜ・・うね・・もつくらず、肥料もやらない。
水と暖気にめぐまれた江南の地には草木がよく繁茂し、雑草が多く、農民たちはその草に火をつけて野焼きするだけである。そのあとにたね・・いてゆき、やがてみのると穂を摘み取ってゆくだけであった。
冬の終わりの野焼きこそ江南の独特の風景であり、項羽はそれを思うとむしょうに帰りたかった。が、帰れない。
この垓下城をたてにして劉邦の大軍をくじかないかぎり、帰ろうにも帰れないのである。
2020/08/17
Next