~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (十四)
やがて陽が高くなった。
漢軍が攻勢に出ないとなると、項羽はみずから率いる殿軍しんがりを率いて垓下がいかに入らねばならない。日が暮れて漢軍に追跡されると厄介なことになるのである。
項羽は、背進むしはじめた。
彼は虞姫を車に乗せたが、遠くへ離れず、そのまわりを護衛するように騎馬で進んだ。
垓下城の岡の上の本営へは、馬や車を捨てて山道を歩かねばならない。路がけわしくなると、項羽は虞姫を抱きあげて左ひじにのせて歩いた。虞姫は項羽の左肩に身をりかからせていたが、遠目で見ると、項羽が小さな虹を担いでいるようにも見えた。

夜に入って、地平線がふくれあがるほどに漢軍が多くなり、垓下の岡の根も流れる河の向こうの野がことごとく火になるほどにおびただしい数の松明たいまつ篝火かがりびが燃えた。
劉邦は大規模な部署替えを行っている。
この攻囲戦の主軸が、韓信軍とされたのである。
項羽に対抗し得る漢将は韓信以外にないというのが衆目の一致するところであり、韓信もそのように自負していた。
韓信の軍は三十万である。
城内に居る項羽の手もとに残された兵力がわずか十万足らずであることを思うと、楚漢の勢力比が懸絶してしまっていることがわかる。
韓信は、士卒を夜間に動かすことの名人であった。
彼らに同士討ちの事故を起こさせず、小部隊の将にいたるまで自分の行くべき場所、使用道路、現場の地形を把握させることは至難のことであったが、韓信軍はそれを整然とやり、道路の混乱もなかった。
作戦というのは最終的には奇術的な発想や手段を使うこともあるが、それへ至る大きなエネルギーは、実務によって整頓されねばならないものだった。軍隊の実経験にとぼしく、書生上がりともいうべき韓信にこれが出来たのは、かつてちょうと戦い、これを破って趙の広武君こうぶくんという練達の将軍を捕虜にしてこれに師事したからであった。この垓下がいかの攻囲陣においても、広武君が軍隊移動の実務を受け持っていた。
韓信は、三十万の自軍を三つに分け、左翼軍の司令官を孔煕こうき将軍(後のりょう侯)とし、左翼軍のそれを陳賀ちんが将軍(後の侯)とし、みずからは中央軍を率いて垓下城の目近くに本営をすえた。項羽が奔出ほんしゅつしてきた場合、こぐさまこれを絡めてさやげた韓信みずからの長剣でこれを斬ろうと思っていた。漢軍の中で項羽の神秘的武勇に対して何の恐怖心も持たなかったのは韓信一人だったといっていい。
劉邦も、戦下手いくさべたのくせに、かつてどの戦場でも陣のはるか後方にいたということはなかった。彼は常に前線近くに立ってきたが、この時もそうであった。
韓信軍のしぐ後に本営を置いた。本営の守りは、葬式屋あがりの周勃しゅうぼつ将軍とそれにのちに棘蒲きょくほ侯になった柴武さいぶ将軍であった。後のことになるが、韓信が高祖劉邦の妻の呂后りょこうの謀略にかかって、長安ちょうあん長楽宮ちょうらくきゅうのなかにある鐘室しょうしつ(鐘をかけてある室)に閉じ込められた時、命によってこれを斬ったのは柴武であった。

これらの陣形が完了したのは、翌日の午後になってからであった。
韓信かんしんは、はやっていた。
彼の名声はあまりに高く、さらにはこの項羽こうう退治にあたって寄せられている期待も大きい。その上、項羽を斬るという空前の大功をどうぢても自分の手に握りたかった。
陣形が完了すると、彼は直率ちょくおつする中軍をひっさげ、馬を駈り、旗をなびかせて垓下がいかの城壁に迫った。
これに対し、城兵は逼塞ひっそくしていなかった。
彼らは城門を八字に開けてあふれ出、韓信の中軍めざしていどみかかった。そのすさまじさは撃って折れた剣やほこの残片がたえず空中に飛び散るほどであり、さすがに項羽の兵は尋常なものではなかった。
城門のそばには、項羽がすい足掻あかかせながら戦機の来るのを待っていた。地形が錯綜し、城内から一時に大軍をあふれださせるということが出来なかったため、馬上の項羽は味方にもまれつつわずかに進む程度であった。
先鋒せんぽうの楚兵の果敢かかんさは、人間とは思えなかった。
一方、韓信は自軍の密集の中で動きのとれぬままむちを鳴らして兵を叱咤しったしつづけたが、やがて韓信の中軍が敗れ、韓信ともども後退しはじめた。
この一事で見ると、韓信は戦闘の猛将とは言い難かった。彼の戦いはつねに彼の流儀で準備をし、わなを設け、敵を誘導して殲滅せんめつするものであったが、この大攻囲戦にあっては寄手よせてはひた押しに押すべきもので、この作戦の名人も尋常な戦闘指揮官たらざるを得なかった。
楚兵が、勝った。
韓信の中軍は総崩れに崩れたち、楚兵は海の中のひとしじの潮のように直進して来た。劉邦の本営まで動揺したこの危機は、韓信の左翼孔煕こうき将軍がすかさず中央へ走り、右翼陳賀ちんが将軍も兵を密集させて楚兵を黄檄したため、かろうじて回避できた。
楚兵は引きあげたが、この後退の時に追いすがって来る漢兵のために潰滅的な打撃をうけた。漢兵は楚兵を斬りつつ執拗しつように追いすがり、城門のそばに到って項羽の姿を見、おどろいて引き揚げた。
項羽は、悲痛だった。
城楼から望んだ時、夕陽を浴びて戦場に置き捨てられたおびただしい死骸のほとんどは楚兵であることを知らねばならなかった。城に帰ることが出来た兵も、数えるほどしかしない。
(最後が来たらしい)
楚人らしい気の早さで、項羽は自らの運命の幕をひきちぎるようにしておろろそうとしていた。
2020/08/18
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