~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (十五)
翌朝、項羽はもう一度突出させた。
この日も、項羽自身がじかに部隊を率いなかったのは、いくちもの理由が、もつれた糸玉いとだまのようにからみあっていた。それをほぐして理由めかしく筋立てて列挙するわけにはいかないであろう。
ぎりぎりの敗亡に追い込まれた将の考えることは、日常の論理や言葉にはひき写せない。
項羽は、死を覚悟していた。
そのくせ項羽はここを脱出して江南の地で再起しようと思っていたのである。これを同時に思った。
矛盾したこの二つを同時に決意しつつ、少しも矛盾を感じなかったのは、こういう情況下の項羽になってみないとわからない。
項羽がこの垓下城で闘死するつもりなら、城門を開いて出て行った部隊とともにああらねばならない。が、城楼から眺めたところ、大地を埋め尽くしている漢軍の海の中ではどこにいるかもわからず、彼を探し求めるうちに兵もたおれ、馬も斃れるだろう(とはいえ項羽自身が斃れることはこの強靭きょうじん生命のぬしは少しも思っていなかった)、徒労ではないか、とこの男は思った。
死を覚悟しつつ、一方では死にいたるために必要な行為だけを切り放してその行為を徒労だと思ったのである。自殺者が死を願いつつも毒を仰ぐ行為が徒労だといっているに似ているが、しかし項羽の場合、本質とはまったく違ったものであるらしい。項羽は、自殺するつもりはなかった。
この旺盛すぎる生気の持主は、頭からそういう発作や考えが浮かびにくい仕組みになっているのではないか。
しかし、死を覚悟している。その死は、闘死という儀式をともなうものらしかった。
闘死するには、雑兵ぞうひょうを相手にそれをしたくなかった。劉邦を真向から斬り下げるか、せめて一太刀むくいてその場に斃れたかった。
敵がみちみちているこの情況下では、その一太刀の闘死の条件がとうてい成立しなかった。しかし一方では死を覚悟している。この覚悟の表現として、彼の分身である直衛部隊を城門から ── 死に向かって ── 突出させたのであろう。
さらに一方においては、項羽はこの城を脱出しようとしている。
脱出といっても、いずれは遠い将来の闘死 ── もしくは劉邦を討つ ── という目的のための手続きで、いのちをまつとうしようという心事とは遠いものであった。自分一人でも江南の地にたどり着けばふたたび壮士、壮丁が集まり、大軍を編成できぬともかぎらないのである。闘死の覚悟と脱出の決断は矛盾のように見えて矛盾せず、しかしこまごまとみれば相絡あいからみあって、ひとすじの糸として取り出せるものではない。
項羽はこの状況下で、気狂‏きぐるいのなかにある。
が、様子はそうとも見えなかった。
彼は落着き払ったままの姿勢で、終日、城楼から戦いを指揮した。
しかし朝出撃した部隊は昼頃には半分になり、夕刻には一人も見えず、夕闇‏ゆうやみがたちこめる頃には、あたりを馳駆‏ちくしているのは韓信の兵ばかりになった。
「あすだ」
城楼から降りつつ、項羽はいつもの顔色で言った。人々は、明日こそ勝ってやるというふうにその言葉を受け取った。しかし勝とうにも勝てるだけの人数がいなかった。
── どうなさるのだろう。
側近のたれもが自分一個の運命より。項羽の身を案じた。このように明日も知れぬ極所に追い込まれた側近たちが項羽に対して持つ心づかいというのも日常の人間感情をよりどころにしては憶測することが出来ない。彼ら一人ずつが項羽という運命のを買っているのである。この時代の符 ── 証文 ── は、竹か木であった。それを二つに割ってその一片ずつを後日の証拠として持ち、必要があればつなぎあわせてあかしをためすのである。
料理人も親衛隊長も掃除だけを役目としている男も、みな無形の符の半片を持っていた。
他の半片は、項羽が持っている。
彼ら項羽の身近の者たちにとっては。割符わりふを持つことによって運が、他の一方の項羽という割符は消えてなくなるのであえる。つまり自分が持つ割符も無意味になるのだが、そのことに腹を立てるということはありえないようであった。すべてが消え命を開こうとした、無に帰し、割符と共に自分自身の肉体も消えてしまうのだが、それを既定のこととしてごく自然にあきらめてしまうものらしい。それよりも、自分のもうひとつの割符 ── 項羽 ── がどうなるのか、そのことの方に気がかりが向くようであり、この紀元前のこういう境涯の人々の感情をべつのたとえでいえば、自分という水瓶みずがめが倒れて項羽という水が流れ出てゆくようなものであった。彼らにすれば流れ出て行く項羽という水の方が気がかりでもあった。
が、項羽自身は表面は平然としている。
初更よいが過ぎ、項羽は虞姫ぐきを寝所にやった。やがて項羽も寝所に入るべく一同に背を向けた時、肩が落ちていた。
── 大王のあのような姿をかつて見たことがない。
と、一同は青ざめる思いで、互いに顔を見合わせた。
2020/08/18
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