~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (十七)
項羽の脱出は、すさまじいものであった。
途中、漢兵の陣があろうがなかろうが、頓着とんじゃくもしなかった。陣のかがりを跳び越え、陣のさくを蹴破り、気付いてはばむ者は刹那せつなに血煙を立ててころがった。
一陣の黒い飄風つむじかぜが漢軍の中を吹き抜けてゆくようで、古来、城を落ちて行く敗軍の歴史の中でこれほどたけだけしい脱出はなかった。このことがかえって漢軍の意表をいた。
── まさか項王ではあるまい。
と、漢軍が論議する頃には、項羽と彼に従う者どもは数キロさきをはしっていた。
項羽に従う者は彼と生死を共にしようという者もあったが、中には項羽に従っていれば脱出できると信じて共に走っている者も多かった。の士卒の項羽に対する信仰は敗走の時でさえ生きつづけているといえる。項羽軍の勃興から衰亡にいたるまで彼の兵が強かったのは、この信仰によるとしか言いようがない。
まわりが明るくなってから調べてみると、八百余騎もいた。
みな休みもなく駈けつづけている。馬が疲れて脚がにぶくなった者は置きざりにされた。
江南こうなんへ帰るのだ」
と、項羽がひとことだけ洩らした言葉を、人々はいつ消えるかも知れない灯のようにいたわるつつ、懸命に南をめざした。
一方、劉邦の本営では、夜が明けてから項羽が脱出してしまったことを確認した。
── 項羽が生きている限り、天下はさだまらない。
と、劉邦はかつて無いほどに狼狽ろうばいし、すぐさま追跡のための手段を講じた。
凄惨なほどの落武者狩りが行われた。どこに、どういう風体ふうていに化けて項羽がいるかわからないのである。
さらには、瓢風ひょうふうのようなものが駈けすぎたという各陣の報告をつなぎあわせてみると、南の方角であるらしいことがわかった。
項羽の首に懸賞がかけられた。
「黄金千枚に加えて一万戸の封地ほうち
というものであった。一介の走卒でも一躍大諸侯に列することが出来るのである。劉邦が項羽の生きていることをいかに怖れたかは、この懸賞の大きさでもわかる。
特別捜索軍も編成され、すぐさま南下した。
その将は、灌嬰かんえいであった。
かつて劉邦の成杲せいこう滎陽けいようにおける籠城戦の時は敵陣に露呈した甬道ようどうを防衛し、猛将をうたわれた男である。その後、劉邦から派遣されて韓信に付属させられ、その武将として働いていた。
彼は騎兵団の指揮にけていた。
この男が率いた部隊は五千騎で、歩兵が主力だったこの時代ではよほどの規模の騎兵部隊であるといえた。
2020/08/19
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