~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 高き身分の者に伴う義務
武士道は、日本の象徴である桜花と同じように、日本の国土に咲く固有のはなである。それはわが国の歴史の標本室に保存されているような古めかしい道徳ではない。今なお力と美の対象として、私たちの心の中に生きている。たとえ具体的な形はとらなくとも道徳的なかおりをまわりにただよわせ、私たちをいまなお惹きつけ、強い影響下にあることを教えてくれる。
武士道を生み、そして育てた社会的状況が失われてからすでに久しいが、あの遥かな遠い星が、かつて存在し、今でも地上に光を降り注いでいるように、封建制の所産である武士道の光は、その母体である封建制度よりも長く生き延びて、この国の人の倫のありようを照らしつづけているのだ。
バーク(英国の政治家)は、武士道のヨーロッパにおける原型である騎士道の、すでにかえりみられることのないひつぎに、感動的な賛辞をあたえたが、いま私は彼の国の言葉をもって、この問題を考察することに、大いなる喜びを感じている。
あのジョージ・ミラー博士(アイルランドの歴史家)のような博学な学者ですら、極東における悲しむべき情報の欠如から、東陽には古代にも近代にも騎士道やそれに類する制度はいっさい存在したことがないと断言したが、このよう8な無知は許されるべきであろう。なぜなら、博士の著作の第三版が出たのは、ペリー提督がわが国の鎖国の門を開いたのと同じ年だったからである。
それから十年経って、わが国の封建制度が末期の苦しみにあえいでいたころ、カール・マルクスは『資本論』を書き、封建制の社会的政治的制度を研究することの特殊な利点を指摘していた。そして当時、封建制のきた形は日本においてのみ見られると述べて、読者の注意を呼び起こした。私も同じように、西洋の歴史および倫理研究者に、現代日本における武士道の研究にもっと力を注ぐよう勧めたいものである。
ヨーロッパと日本の封建制や騎士道と武士道の歴史的な比較研究は、大変魅力的なものであるが、それを詳述するのが本書の目的ではない。私の試みようとするものは、まず第一にわが国の武士道の起源と源流であり、第二にその特性や教訓、第三にはそれらの民衆に及ぼした影響、第四はその影響と継続性、永続性について述べるところにある。
これらの項目にのうち、第一については簡単にすませよう。さもないと読者を日本の歴史の入り組んだ小径こみちに入り込ませてしまうからである。第二の点はやや詳細に論じる。わが国の思想や行動様式についてが国際的な倫理道徳学者や比較行動学の研究者たちの興味をもっとも引きそうだからである。その他は付随的にあつかうものとする。
さて、私がおおざっぱに武士道シバルリー(chivalry)と訳した言葉は、言語の日本語では騎士道よりも、もっと多くの意味合いを含んでいる。「ブシドウ」は字義的には「武士道」である。すなわち武士階級がその職業、および日常生活においいぇ守るべき道を意味する。一言で言えば「武士のおきて」すなわち、「高き身分の者に伴う義務ノーブレス・オブリージュ」のことである。
このように文字上の意味を確認した上で、私はこれ以降、武士道(Bushido)なる日本語を使わせていただくことにする。原語を使うことは次の理由からも望ましい。つまり、これほど限定的で独特な、しかも独自の気風や性格を生んだわが国固有の教訓は、それとわかりうる特徴的なしるしを全面におびていなければならないからだ。加えて民族的な特性を持つある種の言葉は、国民的音色を持つものであって、たとえ最高の翻訳者であっても、その言葉の真意を正しく伝えることは至難の業なのである。
ドイツ語のゲミュート(Gemuth)を翻訳して、その意味をよりよく表せる者が誰かいるだろうか。あるいは英語のジェントルマン(Gentleman)とフランス語のジャンティオム(Gentilhomme)とは言語的にはきわめて近い言葉であるが、この二つの言葉の間にある意味の差を感じない者がいるだろうか。
2020/08/21
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