~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士の心に刻み込まれた掟
武士道とは、このように武士の守るべき掟として求められ、あるいは教育された道徳的原理である。それは成文法ではない。せいぜい口伝くでんで受け継がれたものか、著名な武士や学者の筆から生まれた、いくつかの格言によって成り立っていることが多い。いや、それはむしろ不言不文の語られざる掟、書かれざる掟であったと言うべきであろう。それだけに武士道は、いっそうサムライの心の内壁に刻み込まれ、強力な行動規範としての拘束力を持ったのである。
しかも武士道は、いかに有能な武士であったっとしても、その人、一人の頭脳が創造したものではない。あるいはまた特定の立派な武士の生涯をもとにするものでもない。むしろそれは、数十年、数百年もの長きにわたる日本の歴史の中で、武士の生き方として自発的に醸成され発達を遂げたものなのである。
いうなれば武士道は、政治史における英国憲法と同じ地位を道徳史上で占めているともいえる。とはいえ武士道はマグナカルタや人身保護法に当たるものは持っていない。
確かに、十七世紀の初めに日本では江戸幕府から「武家諸法度」なりものが発布された。が、その十三箇条の短い条文が扱ったのは、ほとんどが婚姻や城郭造り、徒党に関してのことであって、教訓的な道徳律についてはほんのわずかしか触れていない。
それゆえに、明確な時と場所を指して、「ここに武士道の源泉がある」などとは言えない。もし言えるとするなら、武士道の起源は封建制の時代の中で自覚され始めたもの、というだけである。したがって時期に関するかぎりは封建制の始まりと同じと見てよい。したがって封建制そのものが多くの糸で織りなされているよいに、武士道もまた複雑に錯綜さくそうしているのである。
イギリスの封建制はノルマン人の征服から始まったとされているが、日本における封建制の出現も十二世紀末、鎌倉幕府をおこした源頼朝の支配と同時期だったといえる。そしてイギリスにおける封建制の社会的要素が、遠く征服王朝のウィリアム以前にまでさかのぼるように、日本における封建制の芽生えも、先の時期よりさらに以前から存在していたといわねばならない。
日本でもヨーロッパに見るような封建制の始まりとともに、職業的武人階級が必然的に台頭してきた。彼らは「さむらい」と呼ばれ、文字通り古語のクニヒト(cnihit)と同じく護衛や従者の意味である。その性格はカエサル(古代ローマの将軍)がアイクタニアに存在すると述べたソルデュリ(soldurii)や、古代ローマの歴史家タキトゥスが指摘したような、ゲルマンの首長に従ったコミタティ(comitati)、あるいはもっと後世に例をとるならヨーロッパ中世史に登場するミリテス・メディイ(milites)などと、その性質はきわめて似ている。
時が移り、「武家」や「武士」(戦う騎士)という言葉も普通に用いられるようになった。彼らは農・工・商の三民の上に立つ特権階級であって、元来は戦闘を職業とした猛々たけだけしい素姓すじょうだったにちがいない。この階級は、長い年月にわたって続けられた戦乱の世にあって、もっとも勇敢で、もっとも冒険的な者の間から自然に選び抜かれ、臆病者や弱い者は捨てられていった。エマソン(アメリカの詩人)の言葉を借りれば、「野獣のように強く、極めて男性的な、粗野な連中」だけが生き残り、サムライの家臣団と階層を形成していったのである。
やがて彼らの支配階級の一員として身につける名誉と特権が大きくなるに従い、それらにともなう責任や義務も重くなってきた。それと同時に、彼らは行動様式についての共通の規範というものが必要になって来たのである。とりわけ彼らは常に戦う立場にあったので、棟梁とうりょうと呼ばれるそれぞれの首領に属していた。
それはあたかも医師が職業的な礼儀として仲間の競争を制限するように、また弁護士が不文律を破った場合に査問会にかけられるように、武士もまた自分が不始末を犯した場合の、その最終審判を受けるべき何かの基準が必要となっていった、ということである。
2020/08/21
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