~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 大人物は喜怒を色に表さない
武士道は、一方において不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという、礼を重んじた。この二つが一つになってストイックな心をはぐくみ、ついには国民全体が禁欲主義者的な性格を形成した。しかしながら私は、この禁欲主義は外面的なものだと思っている。なぜなら、本当の禁欲主義は国民全体を特徴づけるものにはなりえないからである。
とはいえ、日本人の習慣や習俗のあるものは、外国人から見て冷酷に映るものがあるやも知れないが、実際のところ、私たちは世界に住むどの民族にも劣らぬ優しい感情を持っている国民なのである。
ある意味では、私たち日本人はほかの民族よりもはるかに多くの、まさに何倍も物事に感じやすい性質を持っていると、私は確信している。というのも、自然に発する感情を抑えようとすること自体が、苦しみを伴っているからである。
想像してみるがよい。少年、そして少女も、自分の感情を抑えきれずに涙を流したり、苦しみのうめきを外に表さないように教育された場合、このような努力は彼らの神経を鈍くしてしまうのだろうか、それとも一層、敏感にするのだろうか。これは生理学上の問題である。
サムライにとってすぐに感情を顔に出すのは男らしくないとされた。「喜怒を色に表さず」というのは立派な人物を評するときに使われる常套句じょうとうくである。そこではもっとも自然な愛情さえも抑制された。父親が息子を抱くのは、威厳を損なうことだと考えられた。あるいは夫は妻に、自室ならともかく、人前ではキスをしなかった。ある機知に富んだ青年が、「アメリカ人の夫は、人前では妻にキスするが私室では打つ。しかし日本人の夫は、人前で妻を打って、私室ではキスをする」と言ったが、この比喩には一面の真実があるだろう。
日本人にとって落ち着いた行動、静かなる心は、いかなる情熱によっても乱されることがあってはならなかった。私は、ついこの前の中国との戦争(日清戦争)の際、ある町から連隊が出征した時のことを思い出す。その日、驛には隊長や兵士たちを見送るための大勢の人が集まっていた。この場に駆けつけていたアメリカ人は、さぞや別れの情景は騒々そうぞうしいものになるだろうと想像していたはずである。事実、日本中が初めての対外戦争ということもあって興奮状態にあったし、群衆の中には兵士の両親や妻や恋人もいたからである。だが、このアメリカ人は予想が外れてがっかりしたのである。なぜなら、発車の合図の汽笛が鳴り、列車が動き出すと、何千もの人々は静かに帽子をとって、うやうやしくこうべれて挨拶をしたに過ぎなかったからだ。ハンカチを振る人もなく、言葉を発する者もなく、静寂の中をとぎれとぎれに聞こえてくる、かすかなすすり泣きがあっただけだったからだ。
家庭生活においても同様のことが見られる。親としての弱さを示す振る舞いを見られぬようにと、一晩中病気のわが子の寝息を、ふすまの陰に隠れて聞いていた父親を私は知っている。またある母親は、自分の臨終の時でさえ、息子の勉強の妨げになるからといって、呼び戻すのを断ったという例を知っている。日本人の歴史や日々の生活は、プルターク(古代ローマのギリシャ人著述家)のもっとも感動的な場面にも劣らない英雄的な母親の例に満ちあふれているのだ。イアン・マクラレン(スコットランドの作家)は日本の農民の母親の中に、多くのマーゲット・ホウ(マクラレン作品中の賢母)を見出すにちがいない。
2020/09/14
Next