~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 日本人の微笑の裏に隠されたもの
日本のキリスト教会において熱狂的な信仰復興運動が見られないのも、同じくこの克己のための鍛錬で説明することが出来る。男でも女でも魂が揺さぶられたとき、日本人は本能的に、そのことが外へ表れるのを静かに抑えようとする。誠実に熱弁を振るうことはあっても、抑えきれない衝動から雄弁になるというのは稀である。霊的な体験を軽々しく口にするよう奨励することは、モーゼの第三戒(「汝の神ヤハウェの名をみだりに口にあぐべからず」)を破るように促すことだ。もっとも神聖な言葉や、もっと秘められて思いを、雑多な聴衆に向かって語られるのを聞くことは、日本人には耳障りなことなのである。
ある若いサムライがその日記にこう記している。「汝の魂の土壌が微妙なる思想をもって動くのを感じるか。それは種子の芽生えるときである。言語をもってこれを妨げず、ただ静かにそっと、その働きに任せよ」と。
心の奥底にある思想や感情、とりわけ宗教的な感情を饒舌じょうぜつに述べることは、私たち日本人にとっては、それらの思想や感情がたいして深遠でもなく、また誠実でもないことの表れと受け取られているのだ。よく聞く諺にも「口開けてはらわた見する石榴ざくろかな」というのがある。
感動が生じた瞬間、それを隠すために口を押えるのは、決して東洋人があま邪鬼じゃくだからではない。かのフランス人(政治家タレーラン)が定義したように、日本人にとって原語はしばしば「思想を隠す技術」なのである。
もし、あなたが不孝のどん底にある日本の友人を訪ねたとしよう。それでも友人は真っ赤な目と濡れたほおを見せながらも、いつものように笑って迎えるであろう。
初めあなたは友人が狂っていると思うかもしれない。だが、あえて事態の話をさせると、いくつかの次のような決まり文句が断片的に漏れてくるであろう。「人生愁い多し」とか、「会う者は必ず別れる」とか、「命ある者は必ず滅ぶ」とか、「死んだ子のとしを数えるのは愚痴、されど女心は愚痴にふける」などと。あの高貴なホーエンツォレルン(ドイツの王家)の一人が言った「つぶやかずして耐えることを学べ」という箴言しんげんが語られる前から、日本人の多くはこれに共鳴する心を持ち合わせていたのである。
確かに日本人は、自分の性格の弱点を厳しく突かれた時でも、常に笑顔を絶やさないという傾向がある。日本人の笑いについては、デモクリトス(ギリシャの哲学者)その人にも優る、もっともな理由があること私は思っている。というのも日本人にとっての笑いは、逆境によって乱された心の平衡を取り戻そうとする努力を、うまく隠す役目を果たしているからである。つまり笑いは悲しみや怒りとのバランスをとるためのものなのだ。
こうした感情の抑制を常に強要されるために、日本人はその安全弁を詩歌に求めた。十世紀のある歌人(紀貫之)は、「日本でも中国でも、人は悲しみに突き動かされてとき、そのつらさを詩歌につづる」と書いている。たとえば、先立った子どもがいつもトンボ採りに出かけて留守なのだと想像することで、自分の心を慰めようとした母親(加賀の千代女)は、
蜻蛉とんぼつり 今日はどこまで 行ったやら
という歌を詠んでいる。
だが、もうこれ以上例を挙げるのはよそう。一滴一滴血を吐くように絞り出された価値ある首飾りへとつながれた思想を、たとえ私が外国語で翻訳できたとしても、日本文学の真珠のような真価を正しく伝えることは不可能だからである。私が望むところは、時には冷淡、時にはヒステリックに混じり合った笑いと落胆の様相を見せる、日本人の心の内が少しでも説明し得たとすれば、それでよいと思っている。
2020/09/14
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