~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 切腹はどのように行われたか
ここで私は好古的な好奇心も手伝って、もはや廃絶したこの儀式を描写したくなった。だが、このことは、はるかに優れた著述者によってすでに描かれている。幸か不幸かその本はあまり読まれていないので、そこから長めの引用をしてみよう。その本はミットフォード(英国の外交官)によって書かれた『旧日本の物語』というものだ。彼はその中で日本の珍しい文書から「切腹」に関する論文を翻訳し、さらに自分自身が目撃した処刑の例を次のように記述している。

《われわれ(七人の外国使節)は日本の検視役に案内されて、その寺院の本堂へと招かれた。ここで切腹の儀式が行われることになっていた。それは目を見張るような光景だった。広い本堂の高い屋根は黒ずんだ柱で支えられていた。天井からは仏教寺院に特有の巨大な金色に輝く灯籠とうろうや、いろいろな飾りが垂れ下がっていた。正面の一段高い祭壇の前には、床から三、四寸ほど高くなっている座が設けられ、そこには美しい白い畳が敷かれ、、その上に赤い毛氈もうせんが拡げてあった。ほどよき間隔に置かれた高い燭台しょくだいからは、ぼんやりした神秘的な光が放たれ、ここで執り行われることを見るには十分な明るさだった。七人の日本人検視役が高座の左側、われわれ七人は右側に座った。その他には誰もいなかった。
不安と緊張のうちに数分が経ち、やがて三十二歳の気品ある偉丈夫、滝善三郎が静かに本堂へと入って来た。彼は礼装姿の麻のかみしもを着けていた。一人の介錯かいしゃく人と、金糸の刺繍ししゅうのついた「陣羽織」を着用した三人の役人が彼に付き添った。
介錯という言葉は英語の処刑人という語とは違う、ということを知っておく必要がある。その役目は立派な身分のある者が務める。たいていの場合は切腹を命じられた一族か友人によって行われる。両者の関係は受刑者と処刑人というより、主役と介添えの役の関係である。この時の介錯人は滝善三郎の弟子であった。多くの友人の中から剣術の腕前を見込まれて選ばれたのだ。
やがて滝善三郎は介錯人を左に従え、ゆっくりと検視役の方へと進み出た。二人は検視役ぬ向かって丁重に一礼し、ついでわれわれの方に近づいて、同じ様に丁重な挨拶をした。どちらの検視役もおごそかに答礼した。そして、この咎人は威風堂々といった感じで高座に上がり、祭壇の前で二度礼拝すると、それを背にして赤い毛氈の上に正座した。介錯人は彼の左側にうずくまった。その時三人の付添い役の一人が、三宝(神仏にお供え物をするときに使われる台)を持って前に進み出た。その三宝には白紙で包まれた「脇差」が載せられていた。脇差とは日本の短刀または匕首あいくちのことで、長さは九寸半、その切っ先は剃刀かみそりのように鋭い。付添い役は一礼して、この三宝を咎人に渡した。善三郎はうやうやしく三宝を受け取ると、両手で頭の高さまで押しいただいて自分の前に置いた。
再度、深々と礼をしたあと、滝善三郎は次のような口上を述べた。その声は痛ましい告白をする人の感情とためらいが表れていたが、その顔や物腰には微塵みじんもそのような素振りを見せなかった。
「拙者はただ一人、無分別にもあやまって、神戸で外国人への発砲を命じ、外国人が逃げようとするところを、再び命じた。拙者いま、その罪を負いて切腹いたす。ご列席の方々には、検使の御役目御苦労に存じ候」
そう言うと、一礼して、善三郎は裃を帯のあたりまでするりと脱ぎ、上半身を裸にした。慣例に従って、念入りに両袖を膝の下に敷き、後方へ倒れないようにした。身分のある立派な武士は、前向きに死ぬものとされていたからである。善三郎はしっかりした手つきで、目の前に置かれた短刀を慎重に取り上げ、さもいとおしげにこれを眺めた。それは、しばし最後の覚悟に思いをせているかのように見えた。
次の瞬間、善三郎は短刀で左の腹下に深く突き刺し、ゆっくりと右へ引いた。さらに今度は刃先の向きを変えてやや上に切り上げた。このすざまじい苦痛をともなう動作の間、彼は顔の表情ひとつ動かさなかった。そして短刀を抜き、身体を少しばかり前方に傾け首を差し出した時、初めて苦痛の表情が彼の顔をよぎった。が、声はまったく立てなかった。その時、咎人のかたわらに身をかがめ、事の次第を終始見守っていた介錯人が立ち上がり、一瞬、白刃が空を舞ったかと思うと、重たい鈍い響きとともに、どさっと倒れる音がして、首は胴体から切り離された。
堂内、水を打ったような静寂。目前のもはや動かない肉塊から血潮の吹き出る忌まわしい音だけが、静寂を破っていた。一瞬前までは勇者にして礼儀正しい武士の無惨に変わり果てた姿だった。それは身の毛のよだつような光景だった。
介錯人は低く一礼し、用意していた白紙で刀の血を拭うと、切腹の場から降りた。血塗られた短刀は、処刑の証拠としておごそかに運び去られた。やがて「ミカド」の役人の二人の検視役が座を離れ、われわれが座っている所へ近づき、滝善三郎の処刑の儀式がとどこおりなく遂行されたことを検分あれ、と申し述べた。
儀式はこれで終わり、われわれは寺を去った。》

切腹の描写に関しては、わが国の文学作品や目撃した人の話からいくらでも引用することは出来るが、いま一つの例を挙げれば十分であろう。
左近と内記という二人の兄弟がいた。兄は二十四歳、弟は十七歳だった。二人は父の仇を討つために徳川家康を狙っていた。だが無念にも家康の陣屋に忍び込んだところを捕えられた。家康は大胆にも自分の命を狙った若者の勇気を誉め、彼らに名誉ある死を許すことを命じた。こうした場合、一族の男子はみな処刑される掟になっていたため、末弟であるわずか八歳の八麿も運命を共にした。そして、三人は処刑の場となっていた寺へ引き立てられた。その場に居合わせたある医師が一部始終を日記に残しているので、そこからその場面を引用したい。

最期さいごの時を迎えた三人が並んで座ると、左近は末の弟に向かって言った。「まず八麿から腹を切りなさい。切り損じのないよう兄が見届けてくれよう」。すると幼い八麿は、自分はまだ切腹を見たことがないので、兄たちの作法を見てから続きたい、と答えた。二人兄弟は涙ながら微笑んで、「弟よ! よくぞ申した。それでこそわれらが父の子ぞ」と言った。
そこで二人は末弟を間に座らせると、左近は短刀を自分の左腹に突き刺した。
「見よ、弟よ! わかったか。あまり短刀を深く押し込みすぎるな。後ろに倒れたら無様ぶざまだ。前にうつ伏せ、ひざを崩すな」。内記も同様に腹を切りながら言った。
「目をカッと見開け。さもないと女の死に顔のようになる。切っ先が腸に触れるとも、力尽きようとも、勇気を奮って倍の力でき切れ」。八麿は二人の兄を交互に見た。そして二人が果てると、八麿は静かに上体を露呈し、両側の兄から教わった手本通りに切腹した》
20200916
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