~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士道における生と死の決断
切腹が名誉とあがめられると、当然のことながら、その乱用を生んだ。あまり正当とは認められない理由や、まったく死に値しない事態でも、血気のはやる若者たちは、まるで飛んで火に入る虫のように死に急いだ。混乱、かつ不明な動機によって、尼寺へ駆け込む尼僧よりも多くのサムライたちが、この行為に駆り立てられた。いきおい生命の値段は安かった。それは世間から名誉の代価と見られていたので、いっそう軽んじられた。
もっとも悲しむべきことは、名誉にも打算がつきまとったことである。それには常に純金ではなく、質の悪い合金が混ざっていたのである。ダンテ『神曲』の「地獄編」で、自殺者を全員入れた第七圏よりも、日本人の切腹者は多かったであろう。
とはいえ、真のサムライにとって、いたずらに死に急いだり死を憧れることは、等しく卑怯とみなされた。たとえば一人の典型的な武士(山中鹿之介)は、敗戦につぐ敗戦で、山野を彷徨ほうこうし、森から洞窟へと追い立てられた。そしてついに刀は欠け、弓は折れ、矢は尽き、気がつけば一人薄暗い木立の陰で飢えていた。こうした場合、あのもっとも高貴なローマ人(ブルータス)さえみずからその刃に倒れたはずである。だが、このサムライはここにおよんでも死ぬことは卑怯と考え、キリスト教の殉教者にも似た不屈の精神で、即興の歌を詠み、みずからを奮い立たせたのだ。
憂きことの なほこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん
この気概こそが武士道の教えであった。すなわち、あらゆる艱難辛苦かんなんしんくに、忍耐と正しき良心をもって立ち向かい、耐えよ、ということである。それはまさに孟子が説いた、「天が人に大任を与えようとするとき、まずその心を苦しめ、その肋骨をさいなみ、餓えを知らせ、その人が行おうとしていることを混乱させる。かくして、天は人の心を刺激し、性質を鍛え、その非力を補う」のである。
真の名誉とは、天の命じることをやり遂げるところにあり、それを遂行するために招いた死はけっして不明とな事ではない。だが天が与えようとしているものを避けるための死は、まさに卑怯である。サー・トーマス・ブラウン(英国の医師)の風変りな著書『医道宗教』に、武士道が繰り返し説いている事とまったく同じことが述べてある。それを引用しよう。すなわち「死を軽蔑するのは勇敢な行為である。だが生きることが死ぬことよりつらい場合、まことの勇気はあえて生きることである」と言っている。あるいはまた、十七世紀のある高名な僧(天海和尚)は皮肉を込めて、「普段、いくらうまいことを言っていても、死んだことのない侍は、まさかの時には逃げ隠れするものだ」と言い、さらには「心の中で一度死んだ者は、真田(雪村)の槍も(源)為朝の矢も通らないものだ」と言っている。
これらの言葉は、私たち日本人を、「わたしのために命を失う者は、それを得る」と教えた偉大なるイエスの教会の入り口に、なんと近づけていることか。これらはキリスト教徒と異教徒との違いをより大きくしようとする試みにもかかわらず、人類の道徳的な一致を確信させるに役立つ多数の例のほんの二、三にすぎないのである。
以上述べてきたように、武士道の自殺の制度は、その乱用が一見して私たちを驚かすほどには、不合理でも野蛮でもないことを理解していただけたであろう。
20200916
Next