~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 敵討ちにおける正義の平衡感覚
さて、そこで次には、この制度と姉妹関係ともいえる「敵討ち」、または「復讐」と呼んでもよいが、この制度の中に果たして美点があるかどうかを見てみよう。
私はこの問題については数語で片づけられるのではないかと思っている。というのも、似たような制度、もしくは習慣は、あらゆる民族の間で広く行われ、いまだ完全にはすたれていないからである。それは決闘やリンチといったものが後を絶たないことからも明らかである。最近でもあるアメリカ人将校が、ドレフュスの仇討あだうちをしようと、真犯人のエステラージ(フランスの将校)に決闘を挑んだではないか。
結婚という制度のない未開の部族間では姦通は罪ではなく、恋人の嫉妬のみが女性を不倫から守る。それと同じように、刑事裁判のない時代には殺人は罪ではなく、被害者の身内による油断ならない復讐だけが社会の秩序を維持したのである。
「この世でいちばん美しいものは何か」とエジプト神話のオシリスはホルスに尋ねた。答えは「親の敵を取ること」だった。日本人はこれに「主君の仇」を付け加えただろう。
復讐にはどこか人の正義感を満足させる何かがある。復讐者の理屈はこうである。
「私の善良な父が死ぬいわれはまったくなかった。父を殺した者は大きな悪事を働いたのだ。もし父が生きていたら、このような行為を決して許しはしないだろう。天もまた悪事を憎む。悪を行う者にその行為をやめさせることは父の意志であり、天の意志でもある。その悪人は私の手によって裁かなければならない。なぜなら、彼は私の父の血を流し、その父の肉であり血である私こそが、父を殺した者に血を流させねばならないからだ。私と彼とはともに天を戴くことは出来ない」
この理屈は単純で子供じみている、と言えるかも知れない。だがハムレットでさえ、これ以上の深い理由があったあけではなかった。このことはよく知られている通りだ。この考えの中には人間が生来持っている正確な平衡感覚と平等な正義感が示されている。「目には目を、歯には歯を」の理屈である。
私たちの平衡感覚は、数学の能力のように正確であり、等式の両方の項が満たされるまでは、何かやり残した感じを払拭ふっしょくできないのである。
嫉妬深い神を信じるユダヤ教や、復讐の女神を生んだギリシャ神話では、復讐は人間を超えた存在にゆだねられるかも知れない。だが武士道には生来の常識に支えられ、一種の道徳的均衡を維持するための“道徳法廷”として、敵討ちの制度を作らしめたのだ。そこでは、普通の法律では裁くことの出来ない事件を訴えることが出来たのである。四十七士の主君(浅野内匠頭たくみのかみ)は死罪を宣告されたが、控訴出来る高等裁判所がなかった。そこで主君への忠義にあふれた家臣たちは、唯一存在していた高等裁判所、すなわち復讐の手段に訴えたのである。
そして彼らはその結果、今度は普通法によって裁きをうけた。その審判は有罪であった。だが、一般大衆の本能は別の判決を下したのだ。それはサムライの中でも最高位にある「義士」という称号である。だからこそ、彼ら四十七士の記憶は現在に到るまで、泉岳寺にある彼らの墓と共に、今なお清浄たる香気を放っているのである。
老子は「怨みに報いるには德を以てす」と教えた。だが、「正義をもって怨みに報いるべき」と説いた孔子の方が、遥かに多くの者に支持された。ただし、復讐が正当化されるのは、目上の人や恩義のある人のために行われる場合のみであった。
自分自身や妻子に加えられた害は、個人的なこととしてひたすら耐え忍び、許さなければならなかった。したがってサムライは、祖国の仇を討とうとするハンニバル(カルタゴの将軍)がその妻の墓から、一つかみの土を自分の帯に入れ、それを摂政マリに対して妻の仇を討つための、永久の励みにしたと言うことは軽蔑するのである。
20200916
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