~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 家族的かつ勇敢であれ
人類の半分を占める女性は、ときに矛盾の典型とも呼ばれるが、それは女性の心の直感的な働きが、男性の「数理的な理解力」の範疇はんちゅうをはるかに超えているからである。「神秘的」とか「不可知」を意味する「妙」という漢字は、「若い」という意味の「少」と、「女」という意味の二つの部分から成っている。ということは、女性の身体的魅力や繊細な思考が、男性の粗雑な心理では説明出来ないからである。
しかしながら、武士道が理想とする女性像には、神秘性などきわめて少なく、外見的な矛盾があるにすぎない。私は武士道の求める女性像をアマゾネス的、すなわち勇猛果敢と前述したが、これは真実の半分しか言い得ていない。漢字では妻をほうきを持った女として「婦」で表している。もちろん、その箒を振りまわして夫を攻撃したり防御するためでなく、魔法をかけるためでもない。それは箒が考案された時の無害な使い方に基づいている。したがってこの言葉の観念は、英語で妻(wife)の語源が織り手(weaver)、娘(daughter)の語源が乳搾り(duhitar)に由来するように、漢字の「婦」の場合も、それに劣らず家族的であったといおうことである。
ドイツ皇帝(ウィルヘルム二世)は、女性の活動範囲を台所と教会と子育てにあると言ったが、それらに限らなくとも、武士道が説く女性の理想像はきわめて家庭的だった。一見、この家庭的と勇猛果敢とは矛盾する関係にあるが、武士道では次に述べるように両立するのである。
そもそも武士道は、男性にためにつくられた教えであった。それゆえに武士道が女性に対して重んじた德も、いわゆる女性らしさとかけ離れていたのはむしろ当然といえた。ヴィンケルマン(ドイツの美術史家)は「ギリシャ芸術の至高の美は女性的というより男性的である」と評しているし、またレッキーはそれに加えて、ギリシャ人の道徳観にも芸術と同じことがあてはまると述べている。
武士道もまた、「女性の弱さから自らを解き放ち、もっと強くて勇敢な男性にけっして劣らない英雄的な不屈の精神」と女性を称えた。そのために若い娘たちは、感情を抑制し、精神を鍛え、武器、とくに薙刀なぎなたという長柄の刀を扱って、不慮の事態から身を守れるように訓練された。しかし、この武芸修得の主な目的は戦場で用いるためではなく、自分自身と家庭を護るためであった。女性は自分の主君を持たなかったので、自分の身を護る術を会得し、夫たちが主君の身を護るのと同じくらいの熱意で、わが身と潔白を護ったのである。この戦時のような武芸の訓練が家庭で役立つのは、後述するように息子の教育においてであった。
20200917
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