~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 純潔を守るための懐剣
このような剣術などの訓練は、実践に用いられることはほとんどなかった。だが、女性は習慣上、座っていることが多かったので、これによって健康のバランスを保つ役割を果たしたかも知れないが、むろん、これらの訓練は健康上の目的のためだけに行われたわけではない。イザという時には実際に役立つのである。
少女は成人に達すると、「懐剣」と呼ばれる短刀を与えられた。これは自分を襲う者の胸や、場合によっては自分の胸に突き刺すためのものであった。実際に後者の例はしばしば起きたが、しかしこのことは、自殺を憎むキリスト教徒の良心でさえ、彼女たちを責めることはないであろう。ペラギアとドミナニという二人の少女は、その純潔を守り、神の教えに敬虔だったことから自殺したが、聖者の列に加えられているのだから。
日本のヴァージニアたちは、自分の貞操が危険にさらされた時でも、父の剣を持とうとはしなかった。彼女たちは常に懐中にその短刀を忍ばせていたからだ。また、自害の方法を知らないということは女性にとって恥とされた。たとえ解剖学的な事を教えられなくとも、のどのいかなる部分を切るのか、正確に知っておかねばならなかった。また、死の苦しみがどんなに烈しくとも、そのなきがらは見られても恥ずかしくないよう、整然とした姿勢を要求された。そのためには両膝を帯ひもでしっかり縛る方法も熟知しておく必要があった。
このような身だしなみは、キリスト教徒のパペチュア、あるいは聖なる貞女コルネリアにも匹敵するのではないだろうか。私がこのように質問を唐突にするのは、江戸期における女性たちの入浴習慣やその他のささいな風聞に基づいて、日本人には貞操観念がないといった誤解を抱く者がいるからである。実際のところは、まったく逆で、貞操はサムライの妻にとって命より大切ないちばんの徳目であった。
たとえばこんな話がある。あるうら若き女性が捕らわれの身となり、荒くれ者の手にかかって暴行されそうになった。この時、この女性は男たちに、いくさで散り散りになった妹たちに手紙を書かせてくださるなら、この身を任せようと言った。そしてその許しを受けて手紙を書き終えると、近くにあった井戸へ走り寄り、自らの名誉を守るために、身を投げたのである。残された手紙の結びには、次の歌がしるされてあった。
世にふれば よしなき雲も おほふらん
    いざ入りまして 山の端の月
20200917
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