~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士道が教えた「内助の功」
女性が夫や家、そして家族のために身を犠牲にするのは、男性が主君と国のために身を捨てることと同様、自分の意志に基づくものであって、それは名誉ある立派なこととされた。
自己否定 ── この境地なくして女性の人生における謎を解決することは出来なかった。女性が家庭に尽くすことは男が主君に忠義を尽くすことと同じように、人生の最大の基本であった。
とはいえ、男性が主君の奴隷ではなかったように、女性もまた男性の奴隷ではなかった。妻たちが果した役割は「内助」すなわち「内側からの助け」として尊ばれた。妻は夫のために自分を捨て、夫は主君のために自分を捨てる。そして主君は天の命に従う奉仕者であった。
私はこの教えの弱点をちょくわかっているつもりだ。キリスト教の優越性は、生きとし生ける者の誰もが、創造主に対して義務を負っている点にある。だが、それにもかかわらず、奉仕の精神 ── 自分を犠牲にして高い目的に仕えるという精神であり、これこそキリスト教の最大の教えなのだが ── これに関する限り、武士道は永遠の真理に基づいていたといえるのではないか。
読者は、私が意志の奴隷的服従に賛成しているという不当な偏見をもっているなどと、よもや非難しないだろうと信ずる。私はヘーゲルが幅広い学識と深遠な思考によって主張し、かつ論じた見解、つまり歴史とは自由の発展と実現であるという見解もいいむね受け入れている。私が言いたいのは、武士道の教えには自己犠牲の精神が隅々まで行き渡り、その精神は女性のみならず、男性にも要求されたということである。
アメリカの女性解放運動家が「すべての日本の婦女子は、古い習慣に反逆して立ち上がれ!」と叫んだが、この自己犠牲の教訓が完全になくならない限り、日本の社会はこうした軽はずみな考え方には賛成しないだろう。だいいち、そのような判定運動は成功するだろうか。あるいはそれによって女性の地位は向上するだろうか。そのような性急な運動でかち得た権利は、今日まで日本の女性たちが受け継いできた、あの愛らしい性質や、しとやかな物腰を失うことと引き合うものなのだろうか。なぜなら、古代ローマの女性たちが家庭を顧みなくなった後に、口にするのもおぞましい道徳的荒廃が起こったことは歴史が証明しているのだ。アメリカの改革論者は、日本の女性の反乱が、まことに歴史的発展のとるべき経路だと保証出来るのであろうか。これらは重大な問題である。変化は、そのような反対運動がなくても起きるはずであり、また起こるであろう。
2020/09/18
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