~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士階級における女性の地位 (二)
このような測定方法では、人間の持つもっとも大切な価値、すなわち本来備わっている固有の価値が考慮に入らないことになってしまうのだ。男女それぞれは、この世における使命を果たすために多種多様な要素を備えている。そのことを考えると、男女の相対的な地位を計る際にとるべき基準は、複合的なものでなければならない。経済学上のことばを借りれば、それは「多元本位」でなければならないのである。
武士道には武士道としての独特の基準があり、それは「二項方式」であった。つまり女性の価値を戦場と家庭の両方で計ろうとした。むろん戦場での価値はなく、すべては家庭であった。女性に与えられた待遇はこの二つの評価に対応していた。すなわち女性は社会的あるいは政治的な存在としては重要視されなかったが、妻や母としては、最高の尊敬と愛情を受けたのである。古代ローマ人のように、すこぶる軍事的な国民の間で、なぜ母親たちはあれほど尊敬されたのだろうか。それは彼女たちがマトローナ(matronae)つまり母親であったからではないのか。戦士や政治家としてではなく、母として、男達は彼女らの前に頭をさげたのである。このことは日本人にとって同じであった。
父や夫が戦場へ出かけている間、家事一切を治めことは、母や妻の手に委ねられた。子供の教育はむろんのこと、ときには家の防備も彼女たちに託された。先に述べた女性たちの武芸は、この子供らの教育を賢明に行うためになされていたのだ。
生半可な知識しかない外国人の間では、次のような表面的な見方しかしない人がいるようだ。自分の妻を指す時、日本語の表現としてはあたりまえであえる「愚妻」という言葉を、彼らは日本人の妻が軽蔑され、尊敬されていないからだという。だが、これの対しては「愚父」「豚児」「拙者」という言い方が現在でも使われていることを示せば、誤解をとくに十分だろう。
私は時として、日本人の結婚観は、いわゆるキリスト教徒よりもはるかに進んでいるのではないか、と思うことがある。聖書には「二人は一体となる」とある。だがアングロ・サクソンの個人主義では、夫と妻は別々の人格であるという観念から抜けきれない。そにため夫婦で争う時は、二人それぞれ別の「権利」が認められ、仲良い時は、馬鹿げた愛称や意味のないお世辞を数かぎりなく並べ立てる。夫もしくは妻が第三者に向かって、自分の配偶者のことを、よき妻であれ悪い妻であれ、愛らしいとか賢いとか、優しいなどと語るのを聞くと、私たち日本人にはひどく耳障りに響く。ましてや自分のことを「聡明な私」とか「愛らしい私」などと語るのは、果たしてよい趣味といえるだろうか。
私たち日本人は、自分の妻を誉めることは自分を誉めることだと考える。だから自画自賛は日本人にとって礼儀を知らない者として映る。キリスト教を信奉する国民においても、そうあって欲しいと私は思うのだ。長々と横道にそれたのは、自分の配偶者をけなして呼ぶことは、けっして礼を欠いているからではなく、むしろ他人に対する礼儀上の習慣であり、武士道ではそれが当然だったと訴えたかったのである。
2020/09/18
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