~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士道は消えゆくのか
ヨーロッパの騎士道と日本の武士道ほど、歴史的にきちんと比較できるものは極めて稀である。歴史が繰り返されるならば、間違いなく武士道は騎士道と同じ運命をたどるだろう。騎士道の衰退の原因である、サント・バレー(フランスの言語学者)が述べたような、特殊な、かつ地域的な理由は、もちろん日本の現状にはほとんど当てはまらないが、中世およびその後の、騎士と騎士道を衰退させた原因より、もっと大きくて一般的なことが日本の武士道にも着実に作用しているといわなければならない。
ヨーロッパと日本の場合の際立った違いは、次の点にある。騎士道は封建制から離れた後、キリスト教会に引き取られて、新たな余命を与えられた。だが、日本の武士道はそのような庇護ひごする大きな宗教がなかったことである。そのため母胎の封建制が崩壊すると。武士道は孤児として残され、自力で生きなけらばならないだろう。
ある人は言うかも知れない。現代のよく整った軍事組織が武士道をその庇護下にしているではないかと。しかし周知のように、現代の戦争は武士道が成長し続ける条件を満たしてくれないことは明らかである。武士道の幼年期を育成した神道は、それ自体が老朽化してしまったし、武士道の理論を裏付けした古代中国の白髪の賢人たちもまた、ベンサム(英国の法学者)やミル(英国の哲学者)といった知的新参者に取って代わられている。彼らは時代の好戦的、あるいは排外主義的な傾向に迎合することによって今日の要求によく適合し、それゆえの快楽主義的な道徳論が提供されている。とはいえ、それらはまだ通俗ジャーナリズムのコラムで騒いでいる程度に過ぎないが。
一方では、さまざまな支配権力や権威が武士道に対抗すべく牙をむいている。ヴェブレンが述べるように、「労働者階級の間における儀礼的規範の衰退、いいかえらば生活の通俗化は、繊細な感受性を持った人々の目からみれば、文明の末期的状況」の一つである。めざましい民主主義の抵抗し難い奔流は、それだけでも武士道の残滓を飲み込んでしまう勢いがある。
たしかに武士道は知性と文化を独占的に支えた人々によって組織されたサムライという名の特殊階級の精神だった。同時に武士道は道徳的な等級と価値を自らの掟として定めていた。だが、民主主義はいかなる形式、いかなる形態の特権階級をも認めないのである。
したがって現代の社会的勢力は、狭い階級精神の存在を容認しない。フリーマン(英国の歴史家)が鋭く指摘するように、騎士道は一つの特権階級であった。もし現代社会がなんらかの統合性を認めたとするならば、それは「特権階級の利益のために考案された、純粋な個人的な義務」だけである。これに加えて一般教育の普及、産業技術の発展、そこからもたらされる富、都市生活などが、大衆を急速に席巻している。とばれば、サムライのどんな名刀の切れ味も、武士の最強なる弓矢も、何の役にも立たないことがわかるだろう。
名誉のいわおの上に築かれ、名誉によって防備された国家、これを「名誉国家」、もしくはカーライル流に「英雄国家」と呼ぶにしても、その国家は屁理屈で武装した三百代言の法律家や、ご託ばかり並べている政治家どもの手に掛かってはひとたまりもないのである。ある偉大な思想家はテレサとアンティゴーネ(ギリシャ神話)について「彼女たちの壮烈な行為をはぐくんだ環境は永遠に去った」と述べたが、この言葉は武士道についても当てはなるのである。
悲しいかな武士道の徳! 悲しいかなサムライの誇り! かねや陣太鼓の響きと共にこの世に迎え入れられた武士道は「将軍も王も去る」ように消えゆく運命にあるのだ。
もし、私たちが歴史から何かを得るとするならば、それは武徳が築いた国家、たとえばスパルタのような都市国家であれ、古代ローマのような帝国であれ、決してこの地上では永遠ではない、ということである。
2020/09/24
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