~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 日本人の表皮を剥げばサムライが現れる
人間の闘争本能というものは普遍的で自然なものである。そこに高尚なる感性や男らしい徳目があったとしても、それが人間性のすべてではない。それ以上にもっと神聖なる本能が潜んでいる。すなわち愛という本能である。
これまで見て来たように、神道も孟子も王陽明もみな、明らかにそのことを教えていた。武士道や、戦闘的タイプの道徳はいずれにおいても、目の前の現実に心を奪われて、えてしてこの「愛」という本能の存在をないがしろにしてきたことは確かである。
近年、私たちの生活の幅はより広がり、向上している。武士の訴えて来た使命よりも、さらに大きな使命が、今日私たちに要求されている。すなわち人生観の広がり、民主主義の成長、他民族や他国家についての知識の増大とともに、孔子の仁の思想、あるいは仏教の慈悲の思想は、キリスト教の愛の観念と結びつき膨らんでいくであろう。人はもはや臣下としての身分ではなく、誰もが平等である市民という存在に成長した。いや、市民を超えて人間そのものなのである。
戦雲が地平線に重く垂れ込めようとも、平和の天子の翼がこれを吹き払ってくれることを信じよう。世界の歴史は「優しき人々は地を受け継ぐ」という予言を実証するであろう。平和という生まれながらの権利を売り渡し、産業主義の前線から身を引いて、侵略主義の戦列に加わる国民は、まったく馬鹿げた取引をしているものだ!
社会の状況が大きく変わり、武士道の反対するばかりか敵対するまでになった今日では、武士道にとっては名誉ある埋葬を準備すべきときである。
騎士道がいつ死んだかを指摘するのは、それが始まった時を特定するのと同じぐらい難しい問題だ。ミラー博士は、騎士道はフランスのアンリ二世が武芸試合で殺された一五五九年に廃止された、というが。
それに対して武士道の終焉は、一八七一年に封建制を正式に廃止する廃藩置県のみことのり弔鐘ちょうしょうの合図であった。その五年に公布された廃刀令は、その昔、「労働することなく人生を送る恩恵、安上がりの国防、男らしい感性と英雄的な行動の保護者」であった武士階級がなくなったことを意味し、それに代わって「理屈ばかりの詭弁家、金儲け主義、計算高い連中」の新時代を鳴り物入りで迎えているのだ。
日本が最近の中国との戦争(日清戦争)で勝ったのは、村田銃とクルップ砲によるものだといわれている。あるいはまた近代的な学校制度の成果だともされている。しかしこれは真実の半分もいいえていない。
たとえばエールバールやスタインウェーの選び抜かれた最高のピアノであっても、名手の手を借りずに、リストのラプソディーやベートーベンのソナタを弾くことは出来まい。あるいは銃の良し悪しで戦争に勝てるというのなら、なぜナポレオンはミトラユーズ式機関銃でプロセイン軍を破れなかったのか。モーゼル銃を持つスペイン軍が、なぜ武器としては旧式のレミントン銃しかなかったフィリピン人に勝てなかったのか。
改めて言うまでもなく、人間の活力をもたらすものは精神力である。精神がなければ最良の装備もほとんど役に立たないし、最新式の銃も大砲もひとりでには発射しないのだ。近代的な教育制度といっても臆病者を英雄にすることは出来ない。
事実、鴨緑江おうりょっこうで、あるいは朝鮮や満州で、勝利を勝ち取らせたのは、私たちを導き、そして心を励ました祖先の武士道の霊魂があったからだ。これらの霊魂、すなわち私たちの勇敢なる祖先がつくりだした武士道精神が死に絶えたわけではない。見る目のある人たちにはそれらがハッキリと見えるはずだ。その証拠に、もっとも進んだ思想を持つ日本人の表皮を剥いでみれば、そこにはサムライの精神が現れるであろう。
名誉、勇気、そしてすべての武徳のすぐれた遺産については、クラム教授がじつに見事に表現している。それは「われわれが預かっている財産にすぎず、祖先およびわれわれ子孫のものである。それは誰も奪い取ることの出来ない人類永遠の財産である」と。したがって現在、われわれの使命はこの遺産を守り、古来の精神を一滴たりともそこなわないことである。そして未来に課せられた使命は、それらを人生のあらゆる行動と緒関係に応用してゆくことである。
2020/09/24
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