~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 新渡戸「武士道」に惹かれた理由
じつのところ戦後生まれの私が、武士道なるものに興味をもったのも、この新渡戸稲造の『武士道』を読んでからのことである。もしこれが、江戸時代に書かれた封建制を支えるような忠君主義的なものであれば、歯牙しがにもかけなかったであろう。
いや、それどころか四十歳ごろまでの私は、いまの若い人と同様に、武士道など封建的な“過去の遺物”としか見ていなかったのだ。もちろん言葉としての武士道は知ってはいたが、“全共闘世代”に属する私にとっては、マルクスやレーニン、キルケゴールやサルトルといった西洋哲学の方が身近であり、江戸幕藩体制を支えた武士道など民主主義にはそぐわないものと勝手に見なしていたのである。
ところが、そうした中にあって、戦後という言葉も遠くなり、日本が驚異的な速度で経済大国になるにしたがい、日本人がかつて持っていた「清廉」とか「栄辱えいじょく」とかいった生き方を忘れ、いつしか世界中から「エコノミック・アニマル」とさげすまれるよになっていた。そして、そのあげくバブルに踊り狂った無節操で傲慢な日本人を目のあたりにしたとき、がらにもなく、「本来の日本人はこんなはずではなかった」との思いを巡らせ、ふと手にしたのがこの『武士道』だったのである。
新渡戸『武士道』を読んで、私は自分の浅学を恥じた。この本は、けっして古めかしい道徳を語っているわけでも、封建制度の因習を記したものでもなかった。むしろそれは、現在われわれが失くしてしまった「日本人の伝統的精神」といったものが、世界文化と比較しながら格調高く書かれてあり、人間としての普遍的な倫理観を内包した本だったからである。
それにしても、なぜ私は数ある武士道関連の本の中で、新渡戸稲造の『武士道』に興味を持ったのか。
その理由は、著者である新渡戸稲造という人が、明治から昭和初期における真摯しんしな教育者であり、しかも熱心なキリスト教徒であり、国際親善の使徒として活躍した人であったということだ。そうした人が、なぜ、封建的な精神と思われる武士道を改めて書いたのか、と・・・。
どう考えても、武士道とキリスト教では違和感があった。しかも、この本は、原題を『Bushido── The Soul of japan』といい、明治三十二年(1899年)アメリカから英文で発刊されたものであったのだ。なぜ、あえて英文で書かれたのか。この二つの「なぜ」が、私に『武士道』を読ませた最大の理由だったといえる。
2020/09/25
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