~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 新渡戸稲造とは何者か
こうした「なぜ」を解くにあたっては、その前に新渡戸稲造という人がどのような人物であったのかを少し語っておかねばならない。
新渡戸稲造とは何者か ──。
おそらく多くの人々は、旧五千円札の肖像で名前と顔ぐらいは知っているだろうが、新渡戸博士の人となりとなると、今では知らない人の方が多いのではないか。博士のプロフィールを詳細に語る余裕はないが、とりあえず『武士道』を書くまでに至った、その思想的背景といったものに触れておく。
新渡戸稲造は文久二年(1862年)、明治政府が誕生する六年前、現在の岩手県盛岡市で生まれた。家系は代々の南部藩士で、祖父・つとう、父・十次郎はともに十和田湖周辺の開拓指導者として知られていた人だ。
維新の荒波を受け、文明開化の真っ只中に放り出された稲造少年は、「これからは英語の時代だ」と、明治八年(1875年)、盛岡から上京して東京英語学校に入学した。英語の才能は抜群で、上京してすぐに書いた英作文が、翌九年に米国フィラデルフィアで開かれた「アメリカ独立百年祭」で展示されるほどだった。
やがて十六歳(明治十年、西南戦争のあった年)になった時、新渡戸は祖父以来の開拓事業を引き継ぐために、札幌農学校(現・北海道大学)へ入学した。札幌農学校といえ誰もが思い出すように、「少年よ、大志を抱け!」で有名な、あのウイリアム・S・クラーク博士が教頭(実質的には校長)として赴任した学校である。
“お雇い外国人”の一人として招かれたクラーク博士は、当時、現役のマサチューセッツ州農科大学の学長という職にあったので、日本での赴任期間はわずか八ヶ月にすぎなかったが。だが、この短い歳月の中で、彼は計り知れない影響を生徒たちに残したのだった。
プロテスタントの敬虔けいけんな信者であったクラーク博士は、専門の植物学より、キリスト教に基づく人格教育に重きを置き、彼が残した「イエスを信じる者の誓約」には多くの生徒たちが署名した。もちろん、新渡戸もそれに感化されてキリスト教徒になるのだが、彼は二期生だったので、入学した時にはすでにクラーク博士は帰国しており、直接の面識はない。
だが、クラーク博士の熱情あふれる人格教育は、孫弟子の新渡戸たちにまで感化するほどの校風を築き上げていたのだった。ちなみに、クラーク博士に直接指導を受けた一期生には、のちに北大総長となる佐藤昌介、音韻学者の大島正健、先駆的な農業指導者となった渡瀬寅次郎などがおり、新渡戸と同期の二期生には、明治キリスト教の先駆者となった内村鑑三、植物学者となった宮部金吾らがいる。
2020/09/26
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