~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 大統領を感動させた“ブシドー”
そしてこの本は、日本でも翌年の明治三十三年、ただちに発刊され、多くの青年たちを魅了した。ちなみに、最初の日本語訳としては明治四十一年(1908年)、丁未出版社から桜井鷗村訳が出版されている。
『武士道』は初版刊行以来、絶大な賞賛と共に、新生日本の姿を知ろうとする欧米で、多くの読者を魅了した。それは「第十版の序文」にもあるように、アメリカ、イギリス、ドイツ、ポーランド、ノルウェー、フランス、中国でも出版され、いちはやく世界的な大ベストセラーとなって、新渡戸稲造の名も世界に知られることになるのだ。
ある意味では、それは当然のことと言えた。なぜなら、新渡戸の記した『武士道』は、人間としてかく在るべきという道徳規範の本であり、たとえ国や民族が違っても、人が健全なる社会を築き、美しく生きようとするときの“人のみち”に変わりはなかったからである。
たとえば、新渡戸は同序において、この本をアメリカ大統領のセオドア・ルーズヴェルトが読んで、たいへん感動し、家族や友人に配ったと述べている。それ以来、ルーズヴェルト大統領はすっかり日本びいきとなり、そのおかげで、五年後の日露戦争終結(1905年)のときは、ハーバード大学で同窓だった金子堅太郎(初代総理=伊藤博文の秘書官)から日露講和条約の調停役を頼まれると、
「私は貴国のことはよく知らないが、“ブシドー”はよく知っている。あの崇高なる精神を持った国ならば、およばずながら協力したい」
と、こころよくその役を引き受けたといわれている。
日露戦争は、あと一ヶ月も戦っていれば日本が敗けていたいうのが歴史の定説だから、いわば新渡戸のこの『武士道』は救ってくれたともいえなくもない。事実、岩波版『武士道』の邦訳者である矢内原忠雄(元東大総長=新渡戸稲造の愛弟子)は、その「役者序」において、「その功績、三軍の将に匹敵する」と書いているのは、このことを指してのことである。
あるいはまた、明治期に活躍したフランシス・ブリンクリーというイギリス人のジャーナリストがいたが、彼もまたこの『武士道』に感銘を受けたひとりだった。
日露戦争が勃発したとき、彼は「ザ・タイムズ」の日本通信員となって日本を擁護し、紙上で「日本武士道論」を発表したほどであった。そして、その新聞を読んだロシア皇帝にこらい二世は、これによって日本民族がいかなる民族かを知り、日本を深く研究しなかったロシアの開戦論者たちの軽挙妄動を歎いたと伝えられている。
いずれにしろ『武士道』とい本は、日本人の伝統的精神をあらわすものとして、二十世紀の初頭、あまねく世界に紹介され、「ブシドー」なる言葉を知らしめた最初の本だったのである。
2020/09/26
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